世界はあるがままで正しく完全であると感じた

 9月23日に、スピリチュアルとしかいいようのない不思議な経験をした。私の中で大きな変化が起こっているらしい。

 晴れていたその日、買い物をしようと17時に部屋を出た。マンションの五階から、目の前を流れる荒川と河川敷で連休を楽しむ人々と、きれいな橋と高速道路と秋晴れの空を見上げた。ただ何も考えず無心に眺めていたのだが、私はなんの前触れもなく突然に、世界の実相の一端がわかり、世界を動かしている善なる意志の存在が理解され、激しい感動を覚えて我を忘れた。
 
 世界はすでに完全だった。無条件にすべてがそろい欠けているものは何もなかった。すべてが神の計画通りに、寸分の狂いも誤差も過不足もなく、あらゆるものが神の計画の通りに成就して、運行実施されているとわかったのだ。すべてに神々の慈愛がぎっしりと満ちて空虚なものはひとつもない。外見がいかであれ因縁がどうであれ、すべては神の御意志の通りに、あるべくしてあるし、その事実は過去現在未来を通じて変わらないのだ。なにごとも、どんな小事にもきちんと神の永遠の計画が絶え間なく実行に移されている。

 そう感じて、ほんの数十秒で、私はせきあげる感動に耐えられず、部屋に戻ると座り込んで号泣した。
 ありがたいのと、申し訳ないのと、うれしいのと混ざりあった感動で、西行法師ではないが、「かたじけなさに涙こぼるる」という表現がぴったりくる感覚だった。

 この世界は、まるごと永遠の御意志のもとにあり、そこから洩れているものは一つもない。永遠の御意志は、神でも仏でもハイヤーパワーでも呼び方はなんでもよい。
 この永遠の完全な世界の一部である私達も、完全な部分である。全体が完全なのだから部分も完全である。大きなダイヤの固まりを砕いても、その微粒子もダイヤであるがごとくにダイヤなのだ。
 そして、この心臓の鼓動が、私において、応分の神の永遠の計画が進行中の印だと感じた。
 
 世界はすでに完全なのに、私はそれを知らず、不完全な傷の多い世界だと思いこみ、不平と不満と改善への衝動に駆られて生きてきてしまった。なんとかせねば、どうにかせねばと焦って駆り立てられて、自分を駆り立てて生きてきた。しかし、そこまで駆けずりまわらなくとも、世界はすでに出来上がり、欠けているものなど何もなかった。
 無傷の宝玉を、傷物だ不完全だと騒いでいたのは、自分自身だけだった。世界は巨大な無傷の宝玉なのに、それの表面を電子顕微鏡でのぞき込んで「ほらこんなにでこぼこして醜い」と文句をいっていたようなものだ。「毛を吹いて傷を求む」というたとえの甚だしい事例というほかなかった。

 この世で、私達は、もともと完全な魂という姿をもっているのに、様々な人生を演じる俳優のようだ。色々な人格を演じてなりきっている。それが、この現世に生きる人の姿のたとえとして近いかもしれない。
 私達は、ドラマの収録中に記憶喪失になり、脚本上の自分の役柄を、素の自分と信じ込んで、ドラマの中を現実として「生きる」俳優のようだ。
 本来はどんなに巧みになりきって演じても、フィクションドラマの中の役は、もともとの俳優本人の姿ではない。この世で「これが自分である」「これが世の中である」という思いこみで生きている。もともとの魂が、神に似て完全であるとすれば、そういうものだとしかいいようがない。

 この日の世界の神の計画の大肯定の経験から、あらゆる終末思想は、末法思想であれハルマゲドン思想であれ、人間の思いこみにすぎないとわかった。

 世界は破滅にも終末にも向かっていない。世界を滅ぼそうとする意志は何も感じなかった。すべては、あるべくしてあり、生まれるべくして生まれ、消えるべくして消えるのだ。この見事に完成し成就された世界が、破滅や終末をその内に蔵しているなどありえない。むしろ、より完成度をあげようとしているかのように感じた。

 まちがっているのは、私という人格の「現実と信じているこの世界」への認識だ。あるがままの世界は、まるごと正しく精緻で完成されている。欠点はない。

 欠点や問題があるのは、私という意識であって世界ではない。今の人生を恐ろしい地雷原にしたのは、ほかならぬ複数の過去世の自分たちである。過去世の自分たちの、怒りと貪りと愚かさの言動と心は、人を害そうと埋めた地雷のようなものだ。
 自分の仕掛けた地雷が埋まったまま、再びこの現世に生まれ変わって、地雷を埋めたこともその場所も忘れて、私達は人生という地雷原を歩む。そして、事故災難病気被害という「地雷を踏んだ爆発」に逢う。過去世の自分が人にしたことが、現世の自分に返ってくる。それを仏教では「因果応報」という。

 釈迦やキリストや聖人覚者の教えは、因果応報の説法という形をとろうととるまいと、とにかく「過去世に埋めた地雷があることを知り、それを安全にとりのぞき、なおかつ新たな地雷を埋めることがないようにする」ための教えである。
 そのように考えれば、反省悔悟とは、過去に埋めた地雷を自分で踏んで痛い目に逢い、「地雷を埋めるようなことはすまい」と決心することだといえる。

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Commented by 匿名 at 2018-11-05 20:57 x
9月23日は秋分の日、お彼岸の期間中ですね。
Commented by ecdysis at 2018-11-06 02:22
ありがとうございます。彼岸に渡りたいものです。
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by ecdysis | 2018-11-05 02:09 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(2)