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恐れという重い病を解決するために2

 私のこの病というべき恐怖の根源の大きなひとつには、凶暴な精神障害者だった祖母とのかかわりにあったことは間違いない。
 妄想性の過敏さをともなう人格障害者だった祖母は、アル中の夫である祖父と嫁である母への憎悪と被害妄想に満ち溢れていた。日常的に粗暴で気の狂った言動で、私や弟妹や母を常に怯えさせてきた存在だった。

 しかし、私が成人するまで長年にわたって家族であった祖母から、自分の予想をはるかに超える深刻な悪影響があったのではないかと気づきはじめた。無自覚のうちに、彼女の「病的な心」を受け取ってしまったのではないかと、最近、とても気になっている。
 自分が恐れて憎み嫌った家族から、その家族のネガティブな言動を、知らずにとりこんでコピーしてしまう現象が起こっていたようだ。まるで病原性ウィルスのような「精神的感染」現象が起こるということに気づいた。

 親が依存症でACになり、やがて同じ依存症を発症した子供たちは、最初は「親のようにはなりたくない」とだれもが思っていたはずだ。ところが、そのように意志するものの、実際には親と同じような大人になってしまう。
 意志だけでは親と同じになることを避けることはできない。私もそれを思い知った。

 祖母の精神状態がいかであったかは、私自身が18歳のころにまったく同じ精神に異常をきたしたのでよくわかるし、それゆえに一時は殺害を決意するほど憎んだ祖母を許すこともできた。その経緯はすでに、このブログでも記した。
 しかし、許す許さないの次元とは別に、彼女と同じ屋根の下で暮らすことによって受け取ってしまった悪影響の吟味は、この三十年間してこなかった。それを分析し、しっかり表現する時期がきたのかもしれない。

 ふりかえれば、幼稚園時代にいじめられていた恐怖が、人生最初の恐怖体験として大きく映るが、実はすでに三~四歳のころ、かなり強いストレスを感じていたことが、想い起こされる。
 当時の一枚の写真がある。母の膝の上に抱かれてミルキーの箱を片手につかみ、父と三人で撮った写真があるが、母に抱かれた私は泣きべそをかくような顔をして、まったく幸せそうではない。
 おそらく妹が生まれてまもなくで、「ちゃんとしたおにいちゃんになりなさい」という、母の私への支配的子育てが開始されてまもなくだ。
 母の前に正座させられ、「これからは、かあちゃんのことを、かあちゃんではなく、おかあさんと呼びなさい」と一方的に慣れ親しんだ母の呼び名の廃止宣告されたころだ。困惑し母親に素直に甘えることができなくなったと感じたできごとだった。 
 その一方的な宣告には三歳時の私は大いに不満で怒りを覚えているし、手足をばたつかせて叫びだしたい気持ちになっている。ひとことでいうと「ふざけるな」という怒りだったと思う。

 また、被害妄想の強い人格障害だった祖母への恐れも、私に伝染していったようだ。祖母は、同居する若い息子夫婦の稼いだ金銭を搾取していて、どんなささやかな贅沢も楽しみも許さなかった。
そのため、母から以前、聞かされたが、2歳のころの私に、お菓子を買ってあげるのも、祖父母の目を盗むように気をつかって、私にこっそりとくれたのだという。祖母にそれを知られると無駄金を使ったと叱られるので、母は私に「いいかい、お菓子をもらったって、だれにもないしょにするんだよ」と、私に命じたのだという。
 しかし、子供の私には母のいうことが理解できなかったらしく、お菓子をもらってうれしかったのか、翌日、祖母のいる前で「かあちゃん、きのうお菓子をもらって食べなかったもんね~」とあどけなく告げて、母をあわてさせ祖母を怒らせたという。

 同じように、3歳ぐらいのとき、祖父に庭先のものかげに呼ばれ、「さあ、はやくこれを吸って食え」と卵の先端につまようじの先大の穴をあけた一個の鶏卵を差し出された。
 半世紀前の東北の片田舎では、卵は、牛乳・バナナなども同じだが、今では想像もつかないほど貴重な食品だった。なにしろ、農家が鶏を飼って生んだ卵を、一個単位で納入してその代金を農協の個人の預金通帳に積み立てる「たまご貯金」という名目の口座が当たり前だった時代のことだ。もちろん、私の生家でも鶏卵は現金収入の手段のひとつだったらしく、祖母が卵を自家消費することを嫌って目を光らせていた。当時は乳牛も飼っており、生乳の缶を集荷所に持っていく父たちの姿をおぼろげに覚えている。
 刺激すると面倒な祖母の目を盗んで、祖父が孫かわいさに、卵をこっそり一個失敬して、食べさせてくれたのだ。
 そのとき、祖父も私にこういって卵を渡した。
「早く食え、ばあちゃんにみつかんないようにな。卵もらったっていっちゃだめだぞ」と、また幼児に口止めである。
 家族として当然の愛情表現の食べ物をもらって、なぜ口止めされねばならないのか。なぜ、素直にありがとうといわせてくれなかったのかと、今の私なら抗議するところだ。

 この時点で、すでに両親も祖父も、祖母の人格障害に巻き込まれて、私もその病理に巻き込まれて、人からものをもらうことや、してもらうことに、素直に感謝できず、罪悪感や秘密のもどかしさをともなうようになっていたのだと思う。
 そのとき、祖父からもらった卵の黄身の甘さは、いまだに記憶に残っている。おいしい卵だった。
 このように、家族全員から恐れられた祖母を、私も妹も、のちには弟も恐れるようになった。その恐れは、恨みになり、憎しみにもなった。

 祖母には、以下のような病気の言動があった。
 まず猜疑心。たとえば身の回りものがなくなると、根拠もなく家族のだれかがとって隠したことを疑う。また、わざとなくしたふりをして、母にいいがかりをつけることもたびたびあった。
 罪のないもの、正しいものを、ひきずり落とし、無傷のものを傷つけたいサディズム。清らかなもの美しいものを、その清さと美しさのゆえに憎み呪う。自分が持てないと思ったものを持っていると感じた相手を激しく嫉妬して憎む。
 自分は不当に嫌われており、家族がいつも自分について陰口をいっているという妄想を持っていた。

 他人の悪意や反感には極度に敏感で、即座に暴言を吐いて罵り、ひどい場合は暴力をふるったり唾を吐きかけたりした。
 家族以外の赤の他人への外面だけは非常によかった。列車や旅館でゆきずりに出会う人たちには、家の中では想像もできないほどの快活な善人を演じる。その出会った人たちがみな、「こんなおばあさんなら、うちにもいてほしい」というほど、陽気で愉快で人のいいお婆さんに変身する。しかし、家に戻ったり、身内になったり、入院先で同室になったりした人たちには、気の狂った鬼婆である。

 おそらく本人も原因がわからなかったと思うが、いつも不機嫌でいつも怒りっぽく、手負いの獣のようだった。私たち家族は、本当に腫物にさわるように恐れながら暮らしていた。祖母が温泉に宿泊湯治にいったり旅行にいって家をあけるときは、本当にほっとしたものだ。
 もちろん、祖母が戻ると、彼女はすぐに自分がいない間に、家族が自分の悪口をいって自分をのけものにして楽しいことをしたのではと、疑惑の探索をはじめるので、祖母が帰宅すると家じゅうが緊張していた。

 うつ病も持っていたらしく、入浴することが少なく臭かった。母が嫁にくるずっと前に肋膜炎の大手術をしたが、それは夫である祖父が酔って自分を蹴飛ばしたからだと何度も被害者であることを訴えていた。私が高校生になって祖母に反抗して突き飛ばすと「孫にまでいじめられる」と自己憐憫の涙を流すこともあり、深刻な病的自己憐憫の持ち主だった。

 これらの祖母と同様の行為、もしくは精神態度や妄想を私も受け継いでいるのではないかと気になる。実際に小学校五年のときに、人を疑う私の悪い癖を、母方の祖母に指摘されていたほどだ。

 もちろん、そんな祖母を恐怖しながら冷や汗をかきながら仕えていた母の恐怖をも、私は受け取り、そんな母のストレスのはけ口のように、私自身が母から虐待された。だから、私は祖母と母の二世代の狂気とストレスをまともに受け取って育ったのだ。
 その逃げ場のない「恐怖の家」を、なんの心の麻痺も逃避も依存もなしに生き延びることは不可能だった。

 そういう環境で、まずアルコールが苦手だった母が、飲酒による快感への逃避を覚え、私が中学校2年のときには、キッチンドリンカーになっていた。私や弟が同様になることも不可避だった。
 こうした環境下で、アルコール依存症になり、引きこもり・うつ病・被害妄想・誇大妄想・パニック障害・対人恐怖・女性依存・抜毛症など、一通りの症状を経験してきた。

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by ecdysis | 2019-02-09 00:47 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)