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二度と戻りたくない「迷いと妄想」

 18歳の私は、道理も天地の理法も知らなかった。家族もそうだった。世間体や評判や噂ばかりを気にして、それを超える道理を知らなかった。
 自分がなにものでどうすべきかも、人として何が大切かも、国家や民族や祖先の歴史や業績や訓戒も知らなかった。
 人の心を豊かに幸せにする方法も原則も知らなかった。

 そして、いま「18歳の私は何も知らなかったのです」と叫ぶ。
 これが、釈迦のいう「無明」(普遍の真理や倫理道徳に関する無知)に生きたもののありようだ。「私は、それを知らなかったのです」と、無明の一端を自覚した者は叫ぶ。「それをあのとき知っていれば、教えてもらえていれば、理解できていれば、あんなことにはならなかったのに」と痛恨の念を起こす。
 だが、そのとき、それに無知で、それを理解できなかったのも因縁の道理のあることで、ほかに選択肢はなかった。私の場合はそうだった。

 無明は、生まれつき目の見えない人が、色や形を目で見ることができないように、真理が見えない状態をさす。生まれつき耳の聞こえない人が、まわりの音や声を聞くことができないように、真理を聞くことができない状態をいう。
 このように、無明は万人にとって、苦しみの原因として、必然で不可避である。

 永遠の命以外のものを求め続けるとどうなるかを、私はこの40年間でたっぷり体験させてもらった。
 おのれの無明を自覚せずに、自分の意志と力で、願いを実現しようとすることは、はじめはよくても永続せずに挫折する。幸運にめぐまれてうまくいっても、家庭や対人関係に大きな問題が生じて安心できなくなる。

 無明の第一は、自分が天地自然の日月大地とそれを司る神々と目に見えない世界によって生かされ支えられていて、それなくして一時も生存できないという事実を知ることがない。
 第二は、自分の執着する色欲やそのほかの欲が渇愛であることを知らない。
 第三は、自分が執着している分だけ、もともとある良心と内なる神仏による知覚と認識力が閉ざされていることを知らない。

 その執着を手放せば、これまで見たことも感じたことも予想もしなかった素晴らしい感覚と世界を広く認識する喜びが得られる。しかし、執着の対象にとらわれて、その対象にばかり喜びや快楽の感覚を集中させている間は、真実のあるがままの世界は閉ざされている。ほかに見るべき望ましい喜びの対象となる世界があるのに、それに気づかない。その状態のまま「これしかない」と握りしめて手放さないのが、無明の現れとしての執着のありようである。

 高校・浪人時代、私の救いは肉体の性の快楽だった。それ以外はなかったし探そうとも思わなかった。
 最高にかわいくて魅力的な恋人を得て睦まじくすれば、直ちに癒しと幸福が訪れるだろうと信じていた。
 しかし、それは妄想にすぎなかった。そのかわいい恋人を得て、自慢してみんなにうらやましがられれば、劣等感は補償され、無力感にひしがれた心は、有力感によって元気になると信じた。恋人ひとりを得るだけで、それが万能薬になると疑うことなく信じたのだ。当時の私には、それしか有効な薬に思えるものがなかった。
 私は彼女らのイメージをはげしくむさぼった。それは人身獣面のごとくであった。
 私は、ひどい孤独の状態にあり、それは親や祖先の人達の孤独をも受け継いだものだからだ。

 私が、魅力を感じて一緒になりたいと欲した女性の数はあれこれたくさんいるが、ひとりも伴侶にできなかったので完全な敗北である。
 このような私の愛欲妄想は、まさに「迷いの生存」の象徴だ。愚かなことに、性愛というものを真理真実への愛と混同して、性愛には人を高め魂を恒久的に救う力があると、私は若年時代から致命的な誤解を正しいと信じ込んできた。
 いまは、その幻想に気づいた。エロス(男女の愛)はエロスでしかない。アガペー(神・真理・善・徳への愛)になりかわるのは無理だ。フィリア(友愛)でもストルゲー(家族愛)でもだめだ。

 性愛に人を救う力があるという思い込みはまちがいだとわかった。もしそうなら、離婚はありえず、児童虐待もないはずだ。心を病んだ人間も、恋愛や結婚によって治るはずだ。だが、そのような事実が一般的に存在するとはきいたことがない。子供ができて落ち着いたという話はきくが、恋愛や結婚によって自分や配偶者や家族のもともと病んだ心が治ったという話はきいたことがない。

 そもそも私は、セックスに過大なものを求めてきた。セックスの興奮と快楽の効用は私が期待したような過大なものでは決してなかった。それは迷いの苦しみを与えるだけで救いも癒しもあたえなかった。快楽への興奮と刺激と期待が、それに似て非なる惑わしを起こしただけだった。恋や性交に期待したよいことは予想の十分の一でしかなく、恐れた悪いことは予想の十倍もあった。

 恋愛も結婚も、生き方の病を直す薬にはなりえない。恋愛という執着は苦しみと悩みの源であって、人を苦しみと痛みから救う甘美な薬ではない。肉体の一時的な性の快楽も人を救うものではない。相手への依存も救いにはならず、新たな悩みの原因になるだけだ。

 私は無益な実験を40年にわたって繰り返し、鉛が黄金になることはないという当然の結果を思い知っただけだった。錬金術師の愚かさを発揮しただけだった。恋が人を救うという妄想は完全にうちくだかれた。健康な家庭は、健康な男女が一緒になってできるのであって、病んだ男女がいっしょになっても、あるいはどちらかが病的であっても、専門家や自助団体などの第三者の手助けがなければ、病的な家庭ができるだけだ。だから、私が健康な家庭の幸福を得たいと願ったのも、まったくもって無知による迷いと妄想であった。それは夢という言葉で美化しても、迷いの夢でしかなかった。

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by ecdysis | 2019-03-24 03:57 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)