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ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com


by 心炎

だれかなんとかしてほしい・・・依存の根源

 つい最近気づいたことがある。
 私は、四、五歳のころの、いじめられる幼稚園の日々へのとてつもない恐怖に、たった一人で耐えねばならなかった。その追いつめられた孤独と疎外感のときから、ずっと「だれか、この困った現実をなんとかしてほしい」と、身を凍らせて震え、待ち続けてきたのだ。

「だれかなんとかしてほしい」・・・これが、私の人生において、人間関係の裏面・影として常にあった情動だ。
 ことばを変えれば「自分は無力で、だれかなんとかしてほしい」という「依存対象を求めずにはいられない」衝動だ。親しくなったりある一定以上の関係ができてくると、きまって「この人になんとかしてもらおう」という、すがりつくような衝動が生まれ、いつしか依存に移行してしまう。

 そして、わずかでも依存が受け容れられなかったりすると、たちまち不安になってしまう。きびしい孤独感とさびしさが、傷口にしみて、ひりひりと心をいたませ、深い傷をうずかせる。かつて母のまなざしとことばと体温に飢えていた幼児が、どうしても顔を出してしまうのだ。

 相手のためになんとかしてあげようという気持ちもあるが、同時に「なんとかしてもらおう」という甘ったれたような気持ちも、裏表で存在する。これまで自分でいろいろやってきたのは、ほかにだれかがやってくれないから、やむなくひとりでやってきただけだ。かわりにやってくれる人がいたら、私はただちに依存モードに入るだろう。

 責任感、義務感、自立心・・・本当の意味で、私はそれらを身につけることができるのだろうか。とくに親しくなった女性たちに、いつしか「母」を求めてしまう、この傷ついた幼児意識を成長させることはできるのだろうか。現実の母は死去したが、その母を求め続け、泣くこともできなかった「いいこ」、がまんだけの幼児意識は生き続けている。

 おそらく、やみくもに「だれかなんとかしてほしい」とそわそわするのではなく、落ち着いて自分にできることは自分でやって、それで手に余るなら、神にも人にも頼ればいいのだろう。
 幼稚園時代とちがって、いまの私は、神を意識し、人間の良心を信じて生きている。意識している者に、神のまなざしと御手は働かれ、良心の存在を信じる者に、やみくもな恐怖の事態は訪れない。
 そう信じよう。母のまなざしとぬくもりが得られなかったかわりに、私は神を求める。女性とともにある替わりに、神とともにあろうと思う。
Commented by ひさ at 2007-04-09 11:33 x
昨夜から、全記事読破完了。

まるで、ひたすらに神を求めて絶望の夜を越えたキリスト者の苦悩と対面したかのような・・・。

「神は私よりも私の近くに在る」。byマイスター・エックハルト

そんな言葉を思いだしました。
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by ecdysis | 2007-03-29 23:46 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(1)