お彼岸の想い
2007年 09月 23日
今日はお彼岸の中日だ。実家に墓参りにはいけないが、この部屋にある母と弟の遺影に茶菓と線香をたむける。私もいずれおもむく遠い世界にいる彼らの永久の幸福と安らぎを念じる。また、わが祖先に、さらには有縁無縁の諸霊にも、茶菓をお供えして冥福をあわせて祈る。
神棚に祝詞をあげるとき、神社におまいりするとき、仏前に瞑目するとき、そのときは雑念がひいてゆく。見えない世界の存在に意識を向けるとき、手傷を負った私の心も、静かなあこがれと、眠気と疲れを祓ってわいてくる澄明な感覚と、ほっとする安堵感にひたることができる。
自分自身にも、ほかの人間にも、どうにもならないアダルト・チルドレンの心の傷と病ならば神々と祖先に祈るほかない。目に見えない存在の前でだけ、私は自分が人間であることをゆるしていただける。
人間と人間の間では、私は自分がまともな人間であると感じることができないのだ。いつも自他を比べているからだろう。心が休まらない。ごく少数の友人たちをのぞけば、大多数の人間は、私にとって「対等な人間どうし」という同感や共感をおぼえることができない存在だ。
神棚に祝詞をあげるとき、神社におまいりするとき、仏前に瞑目するとき、そのときは雑念がひいてゆく。見えない世界の存在に意識を向けるとき、手傷を負った私の心も、静かなあこがれと、眠気と疲れを祓ってわいてくる澄明な感覚と、ほっとする安堵感にひたることができる。
自分自身にも、ほかの人間にも、どうにもならないアダルト・チルドレンの心の傷と病ならば神々と祖先に祈るほかない。目に見えない存在の前でだけ、私は自分が人間であることをゆるしていただける。
人間と人間の間では、私は自分がまともな人間であると感じることができないのだ。いつも自他を比べているからだろう。心が休まらない。ごく少数の友人たちをのぞけば、大多数の人間は、私にとって「対等な人間どうし」という同感や共感をおぼえることができない存在だ。
by ecdysis
| 2007-09-23 10:49
| アダルトチルドレン・依存症
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