人格障害者と暮らすという地獄1
2007年 10月 21日
18歳の私が、すべて否定してデリートしたかった過去の大部分はこうだ。
それは、祖母という破滅的な存在によって、「家庭」が毎朝、毎日、破壊され続けてきたことだった。
祖母は、母が私を産んで1年後、母乳がよくでないということをきっかけに、その後20年以上におよぶ、凄惨な嫁虐待を開始した。彼女は、母を、ささいなことでケチをつけて、手にしたものでなぐる、つばをはきかける、いいがかりをつけて罵倒する、舅である祖父と密通しているなどと妄想を根拠に責め立てるなど、激越な人格障害者の正体をあらわにした。
私にものごころついたときにはすでに、母はそうした祖母に、いじめを受けないよう、しかられないよう、怒らせないよう、びくびくおどおどして、ごきげんをとりながら暮らしていた。また激しい虐待と悪罵の数々に、泣いて実家に戻ることもたびかさなった。私が、ものごころつくころには、そんな母から「ばあちゃんを怒らせないように」という家族の中での「秘密」「暗黙の了解」がすでにできていた。
心理的な母への虐待の一例として、私が幼稚園のときに、父兄同伴の遠足のさい、祖母はわざと母に仕事をいいつけ、孫の私を独占した。遠足には、祖母とふたりでいった。母の子供と遠足へいく楽しみを、意図的に奪い去ったのだ。母は「あのとき、どんなにおまえといっしょに行きたかったか。初めての遠足だったんだよ。だけど、ばあちゃんがああだから、若い嫁だった私にはさからえなかったんだよ」。
母が苦しむこと、泣くこと、悩む姿を見ることが、祖母には喜びだったようだ。まさに悪魔というほかはない心理だ。
逆に、母が幸せになること、うれしくなること、楽しくなることを、猛然と否定して踏みにじることを、毎日、毎朝、祖母が起きて家にいるかぎり、日常的におこなった。生前の母がいうには、祖母は「おまえの笑顔は、なんてかわいいのか。そのかわいい笑顔が憎らしいものよ」と、憎悪をこめて逆上していたという。
肥ったヒステリー女の祖母は、どこから見ても美しさや上品さとは、その後、生涯無縁だったし、まだ40歳代で私という孫を得たのだが、あそこが痛いここが苦しいと、私も彼女が農作業や家事をしている姿をほとんど見たことがない。
嫁を虐待するのが生きる目的になった祖母は、祖父とともに、母と父に多忙な農作業や家事を全部おしつけ、若い夫婦が稼いだお金も、みなとりあげた。だから、子供の私にお菓子を買うのも、みなこっそりと祖父母の目を盗んでおこなったのだ。
幼い私が、母からもらえる愛は、生家にあっては、常に「祖父母の目をぬすんで」与えられるもので、決して公明正大でも自然なものでもなかった。そこには、普通の親子のてんしんらんまんな愛情のやりとりなど存在しようがなかったのだ。
そんな状況なので、母には私の育児に手をかける時間さえ与えられず、私はやむなく母の実家に3歳くらいまで、たびたび預けられた。母の背中におぶわれて、農道を走っている記憶がある。母の乗った自転車がころんで、たんぼにつっこんだことがあったので、その恐怖のせいで、よく覚えている。
気の狂った祖母が中心となっていた生家は、そうして若い母子が十分な情操教育をおこなえない、「子育て」もできないような、あらゆる愛の欠乏した修羅場だった。
この「修羅場」は、その後、四半世紀にわたり、祖母がぼけて自殺するまで、毎日のように続く。
それは、祖母という破滅的な存在によって、「家庭」が毎朝、毎日、破壊され続けてきたことだった。
祖母は、母が私を産んで1年後、母乳がよくでないということをきっかけに、その後20年以上におよぶ、凄惨な嫁虐待を開始した。彼女は、母を、ささいなことでケチをつけて、手にしたものでなぐる、つばをはきかける、いいがかりをつけて罵倒する、舅である祖父と密通しているなどと妄想を根拠に責め立てるなど、激越な人格障害者の正体をあらわにした。
私にものごころついたときにはすでに、母はそうした祖母に、いじめを受けないよう、しかられないよう、怒らせないよう、びくびくおどおどして、ごきげんをとりながら暮らしていた。また激しい虐待と悪罵の数々に、泣いて実家に戻ることもたびかさなった。私が、ものごころつくころには、そんな母から「ばあちゃんを怒らせないように」という家族の中での「秘密」「暗黙の了解」がすでにできていた。
心理的な母への虐待の一例として、私が幼稚園のときに、父兄同伴の遠足のさい、祖母はわざと母に仕事をいいつけ、孫の私を独占した。遠足には、祖母とふたりでいった。母の子供と遠足へいく楽しみを、意図的に奪い去ったのだ。母は「あのとき、どんなにおまえといっしょに行きたかったか。初めての遠足だったんだよ。だけど、ばあちゃんがああだから、若い嫁だった私にはさからえなかったんだよ」。
母が苦しむこと、泣くこと、悩む姿を見ることが、祖母には喜びだったようだ。まさに悪魔というほかはない心理だ。
逆に、母が幸せになること、うれしくなること、楽しくなることを、猛然と否定して踏みにじることを、毎日、毎朝、祖母が起きて家にいるかぎり、日常的におこなった。生前の母がいうには、祖母は「おまえの笑顔は、なんてかわいいのか。そのかわいい笑顔が憎らしいものよ」と、憎悪をこめて逆上していたという。
肥ったヒステリー女の祖母は、どこから見ても美しさや上品さとは、その後、生涯無縁だったし、まだ40歳代で私という孫を得たのだが、あそこが痛いここが苦しいと、私も彼女が農作業や家事をしている姿をほとんど見たことがない。
嫁を虐待するのが生きる目的になった祖母は、祖父とともに、母と父に多忙な農作業や家事を全部おしつけ、若い夫婦が稼いだお金も、みなとりあげた。だから、子供の私にお菓子を買うのも、みなこっそりと祖父母の目を盗んでおこなったのだ。
幼い私が、母からもらえる愛は、生家にあっては、常に「祖父母の目をぬすんで」与えられるもので、決して公明正大でも自然なものでもなかった。そこには、普通の親子のてんしんらんまんな愛情のやりとりなど存在しようがなかったのだ。
そんな状況なので、母には私の育児に手をかける時間さえ与えられず、私はやむなく母の実家に3歳くらいまで、たびたび預けられた。母の背中におぶわれて、農道を走っている記憶がある。母の乗った自転車がころんで、たんぼにつっこんだことがあったので、その恐怖のせいで、よく覚えている。
気の狂った祖母が中心となっていた生家は、そうして若い母子が十分な情操教育をおこなえない、「子育て」もできないような、あらゆる愛の欠乏した修羅場だった。
この「修羅場」は、その後、四半世紀にわたり、祖母がぼけて自殺するまで、毎日のように続く。
by ecdysis
| 2007-10-21 05:45
| アダルトチルドレン・依存症
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