人格障害者と暮らすという地獄2
2007年 10月 21日
祖母のいる日々の朝は、いつも祖母の憎悪と怒りの声ではじまった。
眼がさめると、母に憎悪の声を投げつけるのが習慣だった。おきぬけに、障子をあけて、母を呼ぶ。
「どこにいる、このアバズレ!」
母は朝早くから農作業を終えて家事にいそしみ、朝食のしたくだ。
その背中に、毎朝、気の狂った祖母の罵声が浴びせられるのだ。祖母はふとっているだけでなく、着ている着物がだらしなく、風呂に入ることが多くなかったので、異臭がしていた。髪はパーマ気がゆるんだもじゃもじゃ頭で、小さな目がつりあがって、口は大きくガマのようだった。
唇の先に、なぜか大きないぼができていて、乳首のようだった。母は、その祖母の唇のいぼを、ことにきらっていた。
母に対し、祖母は一日中、ほとんど理由なく、ありとあらゆる罵声を浴びせた。あまりにも、たて続けに叫びつづけるので、唇の両側に白いつばの泡がたまり、あげくのはてに、そのまま母につばを吐きかけることもあった。
祖母が母に浴びせ続けた言葉を、方言から東京語に直して記憶にある限り列挙する。
「アバズレ」「スベタ」「悪女」「めだちたがり」「高慢ちき」「ろくでなし」「淫乱女」「ぐうたら」「なまけもの」・・・・
生家の朝は毎日、この繰り返しだった。朝おきて、朝食のときも昼食も夕食も、祖母の怒りと憎悪と憤懣の言いがかりの悪罵と、ぶつぶつ声を聞かないときはなかった。祖母の悪罵が聞こえないときは、酔った祖父や父が酒乱で暴れているときだけだ。
毎日の食卓は、私がものごころついたときから、祖母を刺激しないように、いつも重苦しい沈黙だ。互いの顔を見ない、視線をあわせない、そそくさと下を向いたまま食べる。祖母の感情を爆発させないようにすることが、何よりも最優先だったのだ。
だからこそ、私が小学校5年のとき、妹と母の実家にあずけられた当初、母方の祖母が食事のとき「おまえたちは、なんて食べ方をしているのか。まるでケモノのようではないか。ごはんを食べるときは、ちゃんと顔をあげて相手の目を見て、食べるようにしなさい」と教えてくれたのだ。
そのときの母方の祖母が、私たち孫と嫁にやった娘に対し、どんなに辛く悲しい思いをしたか、いまになってよくわかる。
このように、生家の朝に「おはよう」、夜に「おやすみ」という当たり前の家族の声のかけあいなど、なにひとつない。そんな家庭だった。いずれにせよ、平和な食卓などなかったのだ。
食事どきだけでなく、祖母が奥の部屋にひっこんでいるときでも、油断はできなかった。私たち親子が居間でテレビを見ていると、いつのまにか祖母がこっそり柱のかげにいて、聞き耳をたてているからだ。そして、いきなり居間の前にとびだして「おまえら、いま、私の悪口をいっていただろう!」と、まったくの妄想をわめきちらすのだ。
家庭の団欒など、どこにもありようがなかった。
しかも、来客があるたびに、祖母がしゃしゃり出てきて、自分の嫁がいかに役立たずで、どうしようもなく、淫乱でなまけものかを、延々と根も葉もない誹謗中傷にしてわめきたてる。当然のこと、祖母への来客はなくなり、生家を訪れる客は、ごくごく限られた人々になり、来た人も祖母が嫁の悪口をいいだす前に、さっさと帰るのが常だった。近所の人たちからは、母は相当に気の毒がられていた。
中学時分に父が建設会社をおこしたあとは、今度は社員になって働きに来る人たちにまで、母の悪口を、朝からサッシの窓をあけて大声で吹聴する始末だった。
母はそれらの日々に耐えたのだから、相当な忍耐力だったと思う。
眼がさめると、母に憎悪の声を投げつけるのが習慣だった。おきぬけに、障子をあけて、母を呼ぶ。
「どこにいる、このアバズレ!」
母は朝早くから農作業を終えて家事にいそしみ、朝食のしたくだ。
その背中に、毎朝、気の狂った祖母の罵声が浴びせられるのだ。祖母はふとっているだけでなく、着ている着物がだらしなく、風呂に入ることが多くなかったので、異臭がしていた。髪はパーマ気がゆるんだもじゃもじゃ頭で、小さな目がつりあがって、口は大きくガマのようだった。
唇の先に、なぜか大きないぼができていて、乳首のようだった。母は、その祖母の唇のいぼを、ことにきらっていた。
母に対し、祖母は一日中、ほとんど理由なく、ありとあらゆる罵声を浴びせた。あまりにも、たて続けに叫びつづけるので、唇の両側に白いつばの泡がたまり、あげくのはてに、そのまま母につばを吐きかけることもあった。
祖母が母に浴びせ続けた言葉を、方言から東京語に直して記憶にある限り列挙する。
「アバズレ」「スベタ」「悪女」「めだちたがり」「高慢ちき」「ろくでなし」「淫乱女」「ぐうたら」「なまけもの」・・・・
生家の朝は毎日、この繰り返しだった。朝おきて、朝食のときも昼食も夕食も、祖母の怒りと憎悪と憤懣の言いがかりの悪罵と、ぶつぶつ声を聞かないときはなかった。祖母の悪罵が聞こえないときは、酔った祖父や父が酒乱で暴れているときだけだ。
毎日の食卓は、私がものごころついたときから、祖母を刺激しないように、いつも重苦しい沈黙だ。互いの顔を見ない、視線をあわせない、そそくさと下を向いたまま食べる。祖母の感情を爆発させないようにすることが、何よりも最優先だったのだ。
だからこそ、私が小学校5年のとき、妹と母の実家にあずけられた当初、母方の祖母が食事のとき「おまえたちは、なんて食べ方をしているのか。まるでケモノのようではないか。ごはんを食べるときは、ちゃんと顔をあげて相手の目を見て、食べるようにしなさい」と教えてくれたのだ。
そのときの母方の祖母が、私たち孫と嫁にやった娘に対し、どんなに辛く悲しい思いをしたか、いまになってよくわかる。
このように、生家の朝に「おはよう」、夜に「おやすみ」という当たり前の家族の声のかけあいなど、なにひとつない。そんな家庭だった。いずれにせよ、平和な食卓などなかったのだ。
食事どきだけでなく、祖母が奥の部屋にひっこんでいるときでも、油断はできなかった。私たち親子が居間でテレビを見ていると、いつのまにか祖母がこっそり柱のかげにいて、聞き耳をたてているからだ。そして、いきなり居間の前にとびだして「おまえら、いま、私の悪口をいっていただろう!」と、まったくの妄想をわめきちらすのだ。
家庭の団欒など、どこにもありようがなかった。
しかも、来客があるたびに、祖母がしゃしゃり出てきて、自分の嫁がいかに役立たずで、どうしようもなく、淫乱でなまけものかを、延々と根も葉もない誹謗中傷にしてわめきたてる。当然のこと、祖母への来客はなくなり、生家を訪れる客は、ごくごく限られた人々になり、来た人も祖母が嫁の悪口をいいだす前に、さっさと帰るのが常だった。近所の人たちからは、母は相当に気の毒がられていた。
中学時分に父が建設会社をおこしたあとは、今度は社員になって働きに来る人たちにまで、母の悪口を、朝からサッシの窓をあけて大声で吹聴する始末だった。
母はそれらの日々に耐えたのだから、相当な忍耐力だったと思う。
by ecdysis
| 2007-10-21 13:10
| アダルトチルドレン・依存症
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