恐怖との最初の遭遇
2007年 12月 02日
私が、もっとも古い自分の体験として覚えているのは、「恐怖」や「おびえ」だ。
そこは薄暗いところで、私は父かだれかに両脇をかかえられ、いっしょに湯船で入浴している。
そのとき、私は足の下に何もなく、湯の中で宙吊りになっている自分を感じておそろしかった。
もし、自分を支えている人が両手を放したら、自分はそのまま沈んで窒息してしまう。
そんな風に想像してこわかったのを、はっきりと覚えている。さらには、自分が父方の伯母の家の湯船にいるということを、ちゃんとわかっていた。あとで父にきいたら、それは私が1歳か2歳くらいのことで、覚えているとは思えないといわれた。
私の両脇を両腕でかかえて、いっしょに湯船に入れたのだから、たしかに幼年期のはじめであったのはまちがいない。
なぜ、そんなにこわかったのか。とにかく、足の下に何もないということが、強い不安を感じさせたのだ。いってみれば、浮き輪ひとつで、底なしの深海の上の海面に漂っているかのような、「底なし」への恐怖だった。
父や母に入浴させてもらったことは、毎日のはずなのに、なぜあのときだけ、そんな恐怖を感じて記憶にとどまったのか。伯母の家という環境の変化のせいかどうか、わからないが、とにかくあのときは、私は不安でたまらず、支えてくれている父かだれかを信用することができなかった。ゆだねることができずに恐怖を感じたのだ。
ゆだねることができなかったから怖かったのか、怖かったからゆだねられなかったのか、どちらかは、まだわからない。
そこは薄暗いところで、私は父かだれかに両脇をかかえられ、いっしょに湯船で入浴している。
そのとき、私は足の下に何もなく、湯の中で宙吊りになっている自分を感じておそろしかった。
もし、自分を支えている人が両手を放したら、自分はそのまま沈んで窒息してしまう。
そんな風に想像してこわかったのを、はっきりと覚えている。さらには、自分が父方の伯母の家の湯船にいるということを、ちゃんとわかっていた。あとで父にきいたら、それは私が1歳か2歳くらいのことで、覚えているとは思えないといわれた。
私の両脇を両腕でかかえて、いっしょに湯船に入れたのだから、たしかに幼年期のはじめであったのはまちがいない。
なぜ、そんなにこわかったのか。とにかく、足の下に何もないということが、強い不安を感じさせたのだ。いってみれば、浮き輪ひとつで、底なしの深海の上の海面に漂っているかのような、「底なし」への恐怖だった。
父や母に入浴させてもらったことは、毎日のはずなのに、なぜあのときだけ、そんな恐怖を感じて記憶にとどまったのか。伯母の家という環境の変化のせいかどうか、わからないが、とにかくあのときは、私は不安でたまらず、支えてくれている父かだれかを信用することができなかった。ゆだねることができずに恐怖を感じたのだ。
ゆだねることができなかったから怖かったのか、怖かったからゆだねられなかったのか、どちらかは、まだわからない。
by ecdysis
| 2007-12-02 12:46
| アダルトチルドレン・依存症
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