息が止まるような孤独感
2008年 01月 13日
休日の朝、のんびりしているはずなのに、起きると同時に、そのまま息がとまりそうな寂しさと孤独感が胸に宿って口を開いている。
その冷たさと、うつろさに泣きたくなる。
平日は、仕事ややるべきことがいろいろあって、あれをやらねばこれもやらねばと、意識を切り替えることができるが、休日など、本来の自分が出てくるのだろう。
その孤独感が、私の幼時体験に由来することはわかっている。
父も死んだ弟も、どちらも5歳くらいのときには、毎朝、泣きながら目をさましていた。
弟など、毎朝、べそをかきながら目覚め、母にしかられて追い討ちをかけられていた。
今なら、私も彼らと同じなのだといえる。
父も、五歳くらいのときには毎朝泣いていたときいたことがある。
弟も、どんなにか辛かったことだろうか。
父は、祖父母のケンカの声と不和にまみれた朝に目覚め、私たち兄弟もまた、父をののしり非難する母の金切り声で目覚めていた。家庭の不和と不安定の中で育った子供は、朝泣きして目覚めるしかなかったのだ。
このひどい孤独感と寂しさこそ、朝から幼児を泣かせていたものだ。
不穏で不安定でネガティブなコミュニケーションと感情の嵐が、朝から晩まで吹き荒れるすさんだ家庭。
その中で、守られて愛されている感覚を与えられないで育った子供は、だれもが私たちのようになるのだろう。
この孤独感を感じないですむためなら、アルコールやギャンブルや薬物や恋愛や仕事や、さまざまなものに、なんでも「逃避」する。そうせずにはいられないからだ。
そして、いつのまにか「依存症」という心の病になってしまった。
家庭で、家庭のあたたかさも優しさも安心も自己肯定も教えられないで育った私は、少数の家族や友人知己によっては、決して埋められない孤独感の虜囚になってしまった。そのために、アルコール依存症になった。
酒をやめて、初めてまともに感じるこの深刻な孤独感だ。自助グループに出ることで、私には、多くの人々との交流と、神の助力が必要だと思うようになった。
だから、今朝も孤独感の空洞を感じたとき、私は「なぜそうなったのか、どうすれば埋められるのか」という自分への分析・コントロールを、もうこの辺で放棄しようと思った。自力で、あるいは誰かに依存して、この孤独感を埋めるのは不可能なのだ。
だから、神に「この孤独感をとりのぞいてください」と、「癒してください」と、寝床の中で祈った。
そのとき、鋭かった孤独感の棘の痛みはやわらぎ、凍結の痛みがゆるんだ。私は起き出して、テレビのスイッチを入れ、パソコンを立ち上げ、朝の神棚へのごあいさつの準備をはじめる。
by ecdysis
| 2008-01-13 10:27
| アダルトチルドレン・依存症
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