酔うことに救いはなかった

 思えば、私は、さまざまな方法で「酔う」ことを求めてきた。
 そこに「幸福」と「救い」があると信じたからだ。
 だから、酒に酔い、恋に陶酔し、カルト教祖に心酔した。
 それは「酔い」への「依存・逃避」という点で、まったく軌を一にする。
 どれも、これも「泥酔」だった。「ほろ酔い」などなかった。
 酔ったあげく、いろんな問題を起こし、自分で自分を追い込んだ。

 いまこそ、私はおもう。
 酒でも恋でも宗教でも、「酔う」ことに「救い」はなかった。
 本当の意味で落ち着いた「幸福」もなかった。
 「酔う」ことによって、永続する幸せは得られなかった。
 恐怖や不安からの解放も訪れなかった。
 ひとときは酔えても、いつかシラフになり、寒くて怖くて暗い「現実」に戻るだけだった。

 病的なアディクションにかこつけていえば、「酔う」ことは「気が狂う」ことだ。
 「シラフになる」とは「正気をとりもどす」ことだ。

 「酔って」いては、「幸福」も「愛」もひずんでしまう。
 人と人がともに暮らし、かかわっていく上で「正気」をなくしたらどうなるか。
 私は、自分の父母や祖父母や多くの失敗した恋愛や結婚のケースから、それらをよく知っているはずだ。

 酔って気が狂ってしまい、大事な家族や恋人や友人たちを、まるごと正気で愛せないできたことは口惜しい。狂気の酔いと依存抜きで愛せなかったことは、私が病気であることを如実にあらわしている。

 「正気の愛」よ、わが胸に、魂に宿れかし。わが愛する人々の精神に降り立ち、導きたまえ。
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by ecdysis | 2008-02-20 01:40 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)