内なる深部の病変
2008年 03月 16日
ついに、ここまで来たという感じがする。
私の中で、記憶にある限り、もっとも救いがたく、もっとも陰気で、もっとも盲目的で非理性的な感情が、ついにその露頭を見せはじめた。
それは「ひがみ根性」だ。昨年は嫉妬で苦しんだのだが、今度は「ひがみ根性」の噴火である。「どうせ、おれなんて」と、根拠を確認したわけでもないのに、ひとりで勝手に鬱屈した怒りと劣等感にとらわれてしまう。そこでは、他人の親切も悪意をもって曲解され、他者は本当は自分のようなものなど、必要としていないのではないか、仕方なくつきあっているだけではないのかと、本気で疑念が生じるのだ。
自分は本当は価値のない人間なのではないか。ほかの人たちが持っているものを、自分は所有せず、それを持っている人が、うらやましくて悔しくてねたましくてならない。地位や名誉や名声や人気や才能や、物質的なものや幸せそうな環境や、そういったものを他者が持っているのとくらべて、自分には何も無い・・・。
他人が両手にいっぱいの良いものを抱えもっているのに、自分の両手には何もない。その空っぽの手のひらをみつめる惨めさ情けなさ恥ずかしさよ。それを、人々はあざ笑いバカにしているにちがいない。
人は、私をあざけり笑う。バカにし軽蔑し、唾を吐き、さげすんでゆく。私は惨めな虫けらに過ぎないのだ。ああ、せめて人間らしくあつかってもらえたら。せめて、ほかの人たちと同じものを手にして、「ほら、同じだよ」と気軽にいえたら。
私は人ではない。人間ではないのだ。人間の形をした、何か別の醜いものなのだ。
このまったき自己否定こそ、私のアディクションの根源にある。
私の中で、記憶にある限り、もっとも救いがたく、もっとも陰気で、もっとも盲目的で非理性的な感情が、ついにその露頭を見せはじめた。
それは「ひがみ根性」だ。昨年は嫉妬で苦しんだのだが、今度は「ひがみ根性」の噴火である。「どうせ、おれなんて」と、根拠を確認したわけでもないのに、ひとりで勝手に鬱屈した怒りと劣等感にとらわれてしまう。そこでは、他人の親切も悪意をもって曲解され、他者は本当は自分のようなものなど、必要としていないのではないか、仕方なくつきあっているだけではないのかと、本気で疑念が生じるのだ。
自分は本当は価値のない人間なのではないか。ほかの人たちが持っているものを、自分は所有せず、それを持っている人が、うらやましくて悔しくてねたましくてならない。地位や名誉や名声や人気や才能や、物質的なものや幸せそうな環境や、そういったものを他者が持っているのとくらべて、自分には何も無い・・・。
他人が両手にいっぱいの良いものを抱えもっているのに、自分の両手には何もない。その空っぽの手のひらをみつめる惨めさ情けなさ恥ずかしさよ。それを、人々はあざ笑いバカにしているにちがいない。
人は、私をあざけり笑う。バカにし軽蔑し、唾を吐き、さげすんでゆく。私は惨めな虫けらに過ぎないのだ。ああ、せめて人間らしくあつかってもらえたら。せめて、ほかの人たちと同じものを手にして、「ほら、同じだよ」と気軽にいえたら。
私は人ではない。人間ではないのだ。人間の形をした、何か別の醜いものなのだ。
このまったき自己否定こそ、私のアディクションの根源にある。
by ecdysis
| 2008-03-16 17:18
| アダルトチルドレン・依存症
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