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ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com


by 心炎

「ぼく」が外に出る日

 母に虐待されて許されなかった日を境に、とじこもってしまったぼくは、それからあらゆるものを否定し、すべてに「ノー」を言い続ける。
 自分の未来や幸福や可能性に「ノー」をいい続けた。
 ぼくが、ここにいる限り、とじこもっている限り、もうひとりの表向きの「私」は、その呪縛と影響から逃れられない運命にあった。

 私は、小学校の2年ぐらいには、芸術家や科学者になりたいと思っていた。ところが、なんとなく「自分がどんなにがんばっても、才能があっても、生きている間は無名で、死後にその功績が認められるような、不幸な不遇な人間になるだろう」とずっと感じてきており、その原因は精神科医に相談してもわからなかった。

 ただ、精神科医はそれが虐待と関係のある興味深い心理であると指摘してくれたのだが、まさかこういう「ぼく」が存在するゆえとは思わなかっただろう。私でさえ知らなかったのだから。

「不遇な努力家」のイメージを自分に付与したのは、小学校の2年生のときで、それより前にはない。読書をおぼえ、いろんな生前に不遇だった偉人の物語などを読むようになったせいかもしれないが、それにしてもこれはしつこすぎる。

 やはり、最初の過酷な虐待を受けた小学校1年のころが、境目だったのだろう。抜歯や排尿抑止などの極端な自罰が起こったころだ。「苦痛」を通してしか「自分」を認識できなくなってしまった(というか、されてしまった)。

 この「苦痛と対になった自意識の構成」も、私の大課題のひとつだ。

 自分で自分の手をつねって、その痛みを感じている間だけ、自分が自分であることを確認できるという、病的な自己確認の方法しか見出せなかったのだ。

 神よ、どうかわれみたまえ。どうか癒し、正常化させたまえ、この「ぼく」を、そして「私」を。

 トランクの中のような「金属板の箱の中の孤児」を自覚してから一週間以上になるが、あれから私は連日のように悪夢を見続けている。
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by ecdysis | 2008-05-11 23:32 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)