わが内なる子供たちの意識よ、天の世界を観よ
2008年 10月 23日
秋の日差しの下で、立ち尽くし、ふと、またひとつ内面の示唆が、わいてきて、降りてきた。
当たり前のことに気づいただけなのだが、こう思えて納得ができたのだ。
「私が、自分の過去に欠けていた家庭の団欒や家族のあたたかさを、取り戻したり埋め合わせたりは、決してできないのだ」と。
私の中の傷ついた子供の意識たちは、なんとか欠けたものを埋め、人が持っていて、自分が持っていない「安心できる家庭」を、一部だけでも、体験したいと願い、その中にひたりたいとあがいてきた。
普通の人たちが、普通に暮らしてきたような子供時代を、自分も体験し、取り戻したかったのだ。それは切望であり、念願であり、ひとつの夢でもあった。それができてこそ、自分はまともな人間になれて、欠けたものが補填されて、家庭コンプレックスから解放されるのだと。
だが、今日、不思議な示唆にめぐまれて、虚心の瞬間に気づかされた。
「欠けた子供時代を埋めるすべはないのだ」と。
その自覚は、これまでのような嘆きや痛みや無念の思いを、ほとんどともなわないものだった。ただ、静かな事実の認識があっただけだ。
実は、前日に、何十度目かの「求めて得られなかった安心できる家庭」への絶望と悲嘆に、うちひしがれてしまう夜を迎えて床についたのだ。
求めても得られないということを、納得できなかったのだ。だが、今日、また一段階、「納得」が進んだと思う。
天をあおごう。人の一生は限られている。だれもかれも、必ず死ぬ。過去の喪失体験をくやんでなんとかしたい、なんとかしようと思っているうちに、人生の時は過ぎてゆく。自分の乗った船が、どんなにボロ船でも、ほかの船に乗り移るすべはない。
私に命を与え、今も生かしてくださる神々は、わがすべてをみそなわしたもう。
恵まれぬ家庭で育った私のようなACにも、その御慈愛は平等だと信じよう。
神々の名をたたえつつ、言葉にならない祈りを抱きつつ、私はわが運命の操り手に、何十度目かの力みの抜けた頭をたれる。
神を知らなかった子供たちよ、頭上に神がいらっしゃり、日参する近所の神社にいらっしゃる。
当たり前のことに気づいただけなのだが、こう思えて納得ができたのだ。
「私が、自分の過去に欠けていた家庭の団欒や家族のあたたかさを、取り戻したり埋め合わせたりは、決してできないのだ」と。
私の中の傷ついた子供の意識たちは、なんとか欠けたものを埋め、人が持っていて、自分が持っていない「安心できる家庭」を、一部だけでも、体験したいと願い、その中にひたりたいとあがいてきた。
普通の人たちが、普通に暮らしてきたような子供時代を、自分も体験し、取り戻したかったのだ。それは切望であり、念願であり、ひとつの夢でもあった。それができてこそ、自分はまともな人間になれて、欠けたものが補填されて、家庭コンプレックスから解放されるのだと。
だが、今日、不思議な示唆にめぐまれて、虚心の瞬間に気づかされた。
「欠けた子供時代を埋めるすべはないのだ」と。
その自覚は、これまでのような嘆きや痛みや無念の思いを、ほとんどともなわないものだった。ただ、静かな事実の認識があっただけだ。
実は、前日に、何十度目かの「求めて得られなかった安心できる家庭」への絶望と悲嘆に、うちひしがれてしまう夜を迎えて床についたのだ。
求めても得られないということを、納得できなかったのだ。だが、今日、また一段階、「納得」が進んだと思う。
天をあおごう。人の一生は限られている。だれもかれも、必ず死ぬ。過去の喪失体験をくやんでなんとかしたい、なんとかしようと思っているうちに、人生の時は過ぎてゆく。自分の乗った船が、どんなにボロ船でも、ほかの船に乗り移るすべはない。
私に命を与え、今も生かしてくださる神々は、わがすべてをみそなわしたもう。
恵まれぬ家庭で育った私のようなACにも、その御慈愛は平等だと信じよう。
神々の名をたたえつつ、言葉にならない祈りを抱きつつ、私はわが運命の操り手に、何十度目かの力みの抜けた頭をたれる。
神を知らなかった子供たちよ、頭上に神がいらっしゃり、日参する近所の神社にいらっしゃる。
by ecdysis
| 2008-10-23 02:26
| アダルトチルドレン・依存症
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