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カテゴリ:メンタルヘルス( 90 )

 今年の5月の話だけれど、生まれて初めて参詣した香取神宮の参道商店街の茶店で、厄除け草だんごを食べた。
 隣に居合わせた七十歳ぐらいと四十歳ぐらいのご婦人の二人連れが一串ずつお団子を頼んで食べていた。
 すると、その四十歳ぐらいのご婦人が、お団子を食べて「ああ、おいしい。しあわせだわ」と本当に気持ちがこもった声でいった。
 このご婦人のことばに、はっとし、またほのぼのとさせられ、「この方は本当に幸せな方だ」とうらやましくも思った。
「しあわせ」ということが、どういうことか、自然に知っている人だと思えたからだ。
 この素直で素朴な幸福感を忘れがちだから、なおさら心に響いた。
 一串いくらのお団子を食べただけで、「しあわせだわ」といえる、そのご婦人の心の豊かさと幸福さに、こちらまで心が洗われるようだった。
 依存症から回復してくると、こういう日常的な小さな出来事にも、感動したり幸せを感じたり感謝したりできるようになる。
 かつての私のように、絶頂感や陶酔感のみを幸福感と誤解し、強い刺激と快楽だけを幸福感と思い続けるのは、きわめて不自然で不健康なことなのだと改めて思う。
 小さなことに感動しありがたみを覚えることが、まともな感覚だと思える。
 強い刺激と快感だけを幸福だと信じ込む人は、酒や薬やギャンブルなどの依存症への道を歩むしかない。強い刺激だけを幸福感と錯覚し続けたら心が病気になる。

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by ecdysis | 2019-09-14 01:23 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

 アルコール依存に陥った母と私が思い描いた「完全な幸福」「こわれない最高の幸福」が、この世にはないものなのだと、最初に思い知らされたのは、十年ほど前に知った「平安の祈り(小さなお祈り)」の続編の中だった。
 自助グループでよく唱えられる「平安の祈り」には、公式の定説というわけではないが、続編とされるものがある。それを読んだときだ。

 そこには、こう書かれてあった。

Living one day at a time,
今日一日を生き
Enjoying one moment at a time;
この一瞬を楽しみ
Accepting hardship as the pathway to peace.
苦難を平和への小道として受け入れ
Taking, as He did, this sinful world as it is,
この罪深い世を、その通りに受け取ろう。
not as I would have it.
私が意図したようにではなく、彼(イエス)がしたように。
Trusting that He will make all things right if I surrender to His Will;
信頼しよう。彼の意志に服すれば、すべてが正しくなされることを。
That I may be reasonably happy in this life, and
そうすれば、私はこの生涯で、ほどほどの幸せを
supremely happy with Him forever in the next.
次の(死後の)世界では、彼とともに至福を得るだろう
Amen
アーメン

 ここにある「彼」を「イエス」と固定せず、釈迦や古今東西のハイヤーパワーの御意志を生きた聖人ひとりひとりに読み換えても問題はない。
 表現は英語でキリスト教文化の体裁だが、本質的には古今のまともな宗教や思想でも、形を変えて同じことが唱えられている。
「苦難」とは「目的のための試練と忍耐」を意味し、「罪深い世」は、責め裁く言葉ではなく、悲しみと憐れみと慈しみをもってこの世界を見つめる側の表現である。「罪深い」というのは、「罪を罪と自覚できずに罪を重ねて、より神から遠ざかり不幸になっていく世界」ということ。その世界を、罪から解放するために人知人為で変えようとすることは無理なのだということ。その無自覚の罪の世界と悲惨さを、まるごと世界の実相として、楽観視することなく、絶望視することなく、否定も拒否もせず、いまこのようにあるべくしてあり、やがてはなるべくしてなり、変わるべくして変わっていくことを信じつつ受け入れる。

 仏教でもこの世界を「忍土(サハー)」いわゆる「娑婆(しゃば)」と呼んで、「忍耐すべきことの多い苦しい世界」を意味する言葉で表している。
 ちなみに「忍土」の「忍」は、「悟りに向かうための忍耐」をも意味するので、「平和への小道」としての「苦難」とも重なる。
 pathwayは「小道」「踏み分け道」で、アスファルトで舗装された幹線国道や高速道路ではない。
 人の足跡がたくさん連なってできた道で、一人一人が、自分の脚で一歩一歩踏みしめて歩く道を意味する。 

 私が衝撃を受けたのは、末尾の二行「私はこの生涯でほどほどの幸せを、次の世界では彼とともに至福を得る」というところだった。
 これは「現世で至福(最高の幸福)を味わうのは不可能で、生きている間はほどほどの幸せしか得られない」と宣告されたも同然だった。

 生きている間に、条件さえ整えば、いつか最高の幸福が味わえると頭から思い込んでいた私には、まさに冷水を浴びせられた心地がした。

「おまえの求めてきたものは、生きている間には得られない。どうがんばっても、そこそこのほどほどの幸福しか得られないのだ。さっさと至福を求めるのをあきらめて、ほどほどの幸福で満足せよ」と判決がくだされたかのようだった。
 愕然としたが、私はその判決に異議申し立てはしなかった。できなかったといっていい。自分の中で、何かがまちがっている、何か大事なところで大きな錯誤を持っていると感じてきたことが、その判決内容だと理解できたからだ。

 私が酒に逃げたのも、母や弟や父や祖父がアルコール依存に陥ったのも、「何もかも自分の想う通りになる至福の状態」を求め想定してきたからにほかならない。ギャンブル依存でも薬物依存でも、「現実の辛さを何もかも忘れるために依存する」ことは「何もかも思う通りになる至福の状態」を求めているが故である。言い換えれば、不可能を可能と信じて依存対象にすがっているのだ。

 ありえない至福をありえると信じている間、もしだれかが「その至福の半分だったら味わえる」「数分の一だったら体験できる」といわれても、私はノーといったであろう。100%純粋の至福でなければならなかったのだ。

 しかし、それはまったくの空想妄想で、現実には世間でいう「ほどほどの幸せ」で満足するほかはないのだと認めざるをえなかった。
 至福を味わえないでいるのは、私だけでなくすべての人間がそうだとわかったからだ。

 現世に生きる人間にはだれにも不可能とわかった以上、ほどほどの自分のおかれた状況にふさわしいリーズナブルな幸福で満足する以外に幸福感はないのだと受け入れるほかなかった。

 強い快楽の刺激も有頂天も陶酔も、一時的なもので「至福=永続する壊れない最高の幸福」ではありえない。酒だろうと、薬物だろうとギャンブルだろうと食べ吐きだろうと、刺激も有頂天も陶酔も、酔った感覚はすべて、幸福感ではないのだ。

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by ecdysis | 2019-07-12 16:37 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

 不自由で苦痛な心を病んだ人たちとの家庭生活の中で、母も私も「永続する完全な自由と壊れない幸福」というものがあると信じて求めてしまったのだと思う。

 今なら、そんな自由も幸福もあるわけがないと言えるが、40年前はそうではなかった。母はキッチンドリンカーになり、私も飲酒をはじめていた。辛すぎる現実を生きるには、どこかに完全な永続する自由と幸福があると信じ込んで生きるほかはなかった。

 私が求めたのは、ひとことでいえば「何もかも自分の思う通りになる生活」だ。完全な永続する幸福は、何もかも自分の思う通りになる生活を手に入れることだと信じた。それゆえに、金銭と名誉がなくてはならず、野心をもってそれを実現することが最短だと高校時代の終わりには信じるようになっていた。

 だが、むろん野心などかなえられるわけもなく、ほどなくしてそれはついえたが「完全な幸福」を求めることはやめなかったし、それこそが必要なものだと信じていた。それが、はっきりと妄想だと胸落ちしたのは、ここ数年のことだ。普通の健康な人なら、とっくの昔に知っていることだろうに、私はそれすらわからないで、妄想を現実たりうると信じこみ、ありえないものを求めてしまったのだ。

 しかし、座禅を毎日のように組み、仏教を独習し、諸行無常の事実を思い知ることで、「完全な幸福」という妄想を捨てなければ、決して心の健康さと安らぎを得ることはできないと悟った。

 もう二十年以上も断酒している、あるアルコール依存を持つ知人が「何もかも自分の思う通りになれば、それが最高だろうけれど、現実は決してそうはならない」と語っていたが、私は思わず「そりゃ、ちょっと違うのでは」と言いたかった。

 現実が決してすべて自分の思う通りにならないのを、その人が認識しているのは良いことだ。問題は、前半の「何もかも自分の思い通りになれば、それが最高だろう」という考え方にある。これは、まことにもって私や母が持っていた妄想と同じもので、依存症の人の考え方のひとつの特質なのかもしれない。

 その人の苦しみが、それで洞察できた。「すべて自分の思い通りになる最高の状態」を想定している間は、常にそうではない現実にぶつかって、心が苦しみを感じているはずだ。そんな状態は、そもそもこの世にはありえず、求めることも想定することもすべきではないのだ。なぜなら、それは苦しみしか生み出さないからだ。

 こわれない幸福も自由も、この世界にはひとつもない。何もかも思う通りになって、素晴らしい生活を得て、それで聖人君子になったなどという人はいない。金銭的に思う通りになるという一事だけでも、宝くじで莫大な収入を得て、それで享楽に走り、賭け事や麻薬にのめりこみ人生を破滅させた人々はたくさんいる。

「何もかも自分の思う通りになる」という状態を想定し、求めることは、実は人生に苦痛をもたらし、狂わす最大級の妄想なのだと思う。
「すべてが自分の思い通りになればなるほど幸福の度合いが上がる」とみなすのは、人を滅ぼす恐るべき邪見というほかはない。
 幸福とは、そういうものではないのだと、やっとこの年になってわかってきた。

 よくいわれることだが、今ある現実の中で自分が持っているもの、満たされているもの、愛しているものに、地味でも小さくても深い幸福感を覚えることが、健全な安らぎある幸福感というもので、強い刺激や有頂天や陶酔は「幸福感」ではない。

 健全な幸福感には、依存性がないし、それが去っても孤独感や強迫観念をもつこともない。しかし、強い刺激や有頂天や陶酔は、ともすれば依存症への入り口になるし、去ったあとは孤独感や強迫性が生じる。

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by ecdysis | 2019-07-12 16:33 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

 交際していた女性と別れにいたる問題が起こったとき、多くの場面で、私は彼女らが彼女らではなく、彼女らの母親が乗り移って、私のことを怒り罵り軽侮していると感じることが何回かあった。彼女らが、私に身の上話をしてくれたときの彼女らの母親の姿を彷彿とさせる態度と声音だったからだ。

 彼女らは、無自覚だったと思うが、私はなんだか、本当の彼女ではなく、彼女の母親と対面しているような気がして、とても悲しかった。
 別れの言葉をいっているのは、素顔の彼女ではなく、彼女の母親であるという感覚は、思い返しても悲しい。
 私の知っているきみは、いったいどこへいってしまったんだろうか・・・そう思いながら、別れるしかなかった。
 思い返せば、もしかしたら私の方も彼女らに、私の父親と同じ問題点をあらわにして「お父さんそっくりじゃないの」と思わせたかもしれない。

 いずれにせよ、 わが愛欲・恋愛・結婚への妄想は、虚しい結果だけの執着・煩悩にすぎなかった。不毛であわれでいたましい経験を積み重ねさせただけだった。煩悩の体験は、煩悩とそれを基本にした言葉と行動と考え方すべてが、虚しく悲しく苦痛な結果しか生み出さない。そして、最終的にそこから離れるべきであるということだけを教えた。

 煩悩をもとにした生き方は、それを自覚しないとしても、水晶かダイヤモンドの塊と信じて、氷の塊を抱き続けるようなものだ。冷たくなるしびしょびしょになるし小さくなって、やがては消えてしまう。
 その冷たさと濡れ方と消えてしまうことに、どれほどの痛みと苦しみと悲しみを覚えたことか。
 一度の経験で、これは貴石ではなくただの氷だと気づけばいいが、たいていは、また別の氷を宝石と信じて手に入れて、同じことを繰り返す。

 これは水晶でもダイヤでもなくただの氷で、抱きしめて身に着けているべきものではないと気づくまで、喪失の辛さは繰り返される。冷たさと濡れねずみに弱り、氷の塊が縮小してなくなる苦痛と悲嘆と傷心を繰り返すほかはない。私も40年間そうだった。
 価値あるものと信じて価値なきものに執着させるのが、煩悩であり幻想であり妄想である。別の言葉でいうと「生き方の病」、あるいは仏教にいう「迷いの生存」ということだ。

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by ecdysis | 2019-06-23 23:39 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

 18歳の私は、道理も天地の理法も知らなかった。家族もそうだった。世間体や評判や噂ばかりを気にして、それを超える道理を知らなかった。
 自分がなにものでどうすべきかも、人として何が大切かも、国家や民族や祖先の歴史や業績や訓戒も知らなかった。
 人の心を豊かに幸せにする方法も原則も知らなかった。

 そして、いま「18歳の私は何も知らなかったのです」と叫ぶ。
 これが、釈迦のいう「無明」(普遍の真理や倫理道徳に関する無知)に生きたもののありようだ。「私は、それを知らなかったのです」と、無明の一端を自覚した者は叫ぶ。「それをあのとき知っていれば、教えてもらえていれば、理解できていれば、あんなことにはならなかったのに」と痛恨の念を起こす。
 だが、そのとき、それに無知で、それを理解できなかったのも因縁の道理のあることで、ほかに選択肢はなかった。私の場合はそうだった。

 無明は、生まれつき目の見えない人が、色や形を目で見ることができないように、真理が見えない状態をさす。生まれつき耳の聞こえない人が、まわりの音や声を聞くことができないように、真理を聞くことができない状態をいう。
 このように、無明は万人にとって、苦しみの原因として、必然で不可避である。

 永遠の命以外のものを求め続けるとどうなるかを、私はこの40年間でたっぷり体験させてもらった。
 おのれの無明を自覚せずに、自分の意志と力で、願いを実現しようとすることは、はじめはよくても永続せずに挫折する。幸運にめぐまれてうまくいっても、家庭や対人関係に大きな問題が生じて安心できなくなる。

 無明の第一は、自分が天地自然の日月大地とそれを司る神々と目に見えない世界によって生かされ支えられていて、それなくして一時も生存できないという事実を知ることがない。
 第二は、自分の執着する色欲やそのほかの欲が渇愛であることを知らない。
 第三は、自分が執着している分だけ、もともとある良心と内なる神仏による知覚と認識力が閉ざされていることを知らない。

 その執着を手放せば、これまで見たことも感じたことも予想もしなかった素晴らしい感覚と世界を広く認識する喜びが得られる。しかし、執着の対象にとらわれて、その対象にばかり喜びや快楽の感覚を集中させている間は、真実のあるがままの世界は閉ざされている。ほかに見るべき望ましい喜びの対象となる世界があるのに、それに気づかない。その状態のまま「これしかない」と握りしめて手放さないのが、無明の現れとしての執着のありようである。

 高校・浪人時代、私の救いは肉体の性の快楽だった。それ以外はなかったし探そうとも思わなかった。
 最高にかわいくて魅力的な恋人を得て睦まじくすれば、直ちに癒しと幸福が訪れるだろうと信じていた。
 しかし、それは妄想にすぎなかった。そのかわいい恋人を得て、自慢してみんなにうらやましがられれば、劣等感は補償され、無力感にひしがれた心は、有力感によって元気になると信じた。恋人ひとりを得るだけで、それが万能薬になると疑うことなく信じたのだ。当時の私には、それしか有効な薬に思えるものがなかった。
 私は彼女らのイメージをはげしくむさぼった。それは人身獣面のごとくであった。
 私は、ひどい孤独の状態にあり、それは親や祖先の人達の孤独をも受け継いだものだからだ。

 私が、魅力を感じて一緒になりたいと欲した女性の数はあれこれたくさんいるが、ひとりも伴侶にできなかったので完全な敗北である。
 このような私の愛欲妄想は、まさに「迷いの生存」の象徴だ。愚かなことに、性愛というものを真理真実への愛と混同して、性愛には人を高め魂を恒久的に救う力があると、私は若年時代から致命的な誤解を正しいと信じ込んできた。
 いまは、その幻想に気づいた。エロス(男女の愛)はエロスでしかない。アガペー(神・真理・善・徳への愛)になりかわるのは無理だ。フィリア(友愛)でもストルゲー(家族愛)でもだめだ。

 性愛に人を救う力があるという思い込みはまちがいだとわかった。もしそうなら、離婚はありえず、児童虐待もないはずだ。心を病んだ人間も、恋愛や結婚によって治るはずだ。だが、そのような事実が一般的に存在するとはきいたことがない。子供ができて落ち着いたという話はきくが、恋愛や結婚によって自分や配偶者や家族のもともと病んだ心が治ったという話はきいたことがない。

 そもそも私は、セックスに過大なものを求めてきた。セックスの興奮と快楽の効用は私が期待したような過大なものでは決してなかった。それは迷いの苦しみを与えるだけで救いも癒しもあたえなかった。快楽への興奮と刺激と期待が、それに似て非なる惑わしを起こしただけだった。恋や性交に期待したよいことは予想の十分の一でしかなく、恐れた悪いことは予想の十倍もあった。

 恋愛も結婚も、生き方の病を直す薬にはなりえない。恋愛という執着は苦しみと悩みの源であって、人を苦しみと痛みから救う甘美な薬ではない。肉体の一時的な性の快楽も人を救うものではない。相手への依存も救いにはならず、新たな悩みの原因になるだけだ。

 私は無益な実験を40年にわたって繰り返し、鉛が黄金になることはないという当然の結果を思い知っただけだった。錬金術師の愚かさを発揮しただけだった。恋が人を救うという妄想は完全にうちくだかれた。健康な家庭は、健康な男女が一緒になってできるのであって、病んだ男女がいっしょになっても、あるいはどちらかが病的であっても、専門家や自助団体などの第三者の手助けがなければ、病的な家庭ができるだけだ。だから、私が健康な家庭の幸福を得たいと願ったのも、まったくもって無知による迷いと妄想であった。それは夢という言葉で美化しても、迷いの夢でしかなかった。

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by ecdysis | 2019-03-24 03:57 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

自分の「心」に気づく時

 釈迦は、悟りも迷いも、「心」からくると詳しく解説している。
 それらの言葉は、座禅をはじめて仏教書を本格的に読みだして2年になるが、これまで字面で読むだけで、ほとんど実感には遠かった。

 最近まで、「自分の心を知っているつもりになっていただけで、実は未知の領域のまま蓋をして否認してきた」という事実にさえ気づかなかった.
では、私はこれまで、どのように自分の心を認識してきたか。
 もっとも中心にあるのは「あるべき自分の心」と「あってはならない自分の心」の二つの部屋を持っているということ。
 これは、「有ることを知っていて人にも話せて認めることのできる心・感情」と「有るのを知ることさえ否定し人にも話さず認めることのできない心・感情」とも言える。

 自分の心の否認は、言い換えれば「自己の欠点や問題点の否認と認知能力の凍結・麻痺」ということになる。
 あるがままの自分の心と感情は、私のひどい家庭の中では、現わすことも感じることも否定すべき「恐ろしい忌むべきもの」だった。

 けれども、そのように「有ってよい心」と「有ってはならない心」とわけても、有るものは有る。
 それは、たとえば部屋に有る物を「快適な物」と「不快な物」とにわけて、前者は日常的に必要なものとして使い、後者は「ないことにして部屋の隅に放置」という対処をしているのと同じだ。不快な物は、そもそも部屋の外に出すべきなのだが、まず「不快な物が室内に有って積まれている」という事実を認めることからはじめねばならない。「有るものを有ると認めること」がまず、最初に為すべきことなのだから、我ながら驚かざるをえない。
 道元禅師の「眼横鼻直(がんのうびちょく)」の教えの通り、「目が横にふたつ、鼻が縦にまっすぐについていること」さえ、ふだんは当たり前のこととして意識にもせず、気づくこともないように、改めて気づけば、その事実が驚きをもって受け止められるようになる。

 私の心にも同じことがいえて、有るがままに見ることをしてこなかったがために、否認し無いことにしてきた心を、ここにきて急に自覚せざるをえなくなってきた。

 私は、これまで見たくない自分の醜い感情、あってはならない悪い心を、「何かのまちがいで起こったが、もともと自分のものではないので、見なくてよい心」にして、不要な心の箱に入れて蓋をしたつもりだった。
 しかし、それらは、私の蓋をしたつもりが、ただの思いこみであることを証明するだけだった。実際は、蓋をされたわけではなく、常に私の中に起こって、隠したり見ないふりをするだけだった。見ないふりということは、外にも内にも現れ見えていたということだ。まったく見えなければ、見ないふりなどする必要がない。

 しかし、自分に不都合だからといって、心に有るものを無いとすることは、自分の心と人格全体に対する高慢であり冒涜でさえあった。そのことにようやく気づいた。自分の心の無視という、自分自身への高慢な姿勢に、これまで気づかなかったのだ。

 そもそも、酒を飲んで女性とつきあっていたころ、私には自分でも情けないと思う気持が心の奥にあって、それに苦しんでいた。
 それは、女性に依存して養ってもらいたいという、実に恥ずかしい依存欲求がうずくのを感じて、「これはあっちゃならない感情だ、なにかのまちがいだ。おれはこんなダメ男じゃないはずだ」と否定した。現実的にはダメ男だったのだが、そう自分でうめいていた。

 依存症と経済的不安と恐れとさまざまな気持が錯綜して、そういう精神状態になったのだと理解していたが、それはもっと根深いものであることがわかってきた。

 思い返せば、私は18歳のときに「よき父、よき夫になりたい」という願望をもち、それにふさわしい精神を持ちたいと思い続けてきた。それは、いまだ実現されないことであったが、あらかじめの矜持、プライドとなって、そのような女性への経済的依存をともなう依存を否認するのに役立っていた。よき家庭人たりえたいという願望によって、私は自分のおろかさや醜さや罪悪を否認することができた。私は私の心のうち、陰にまわしてしまった暗い幼稚な心を、立派な長男になるという願望によって否認し、あってはならない心として見ないことにした。

 その夢のおかげで、私は自分を支え有力感を持つことができた。「今はこうだけれど、いつかはきっと、ちゃんとした家庭をつくるんだ」という夢の前に、私は自分の心のうちで、人に見せていい心と、否認して隠すべき心を仕分けしてしまった。そして、自分の卑しい暗い心を「善き家庭人になるためには不要な邪魔者」としてすべて蓋をしたつもりだった。

 だが、そのプライドの原動力の夢はいつまでも実現されす、むしろ実現できない可能性が日々に増し、私は自分のいやな醜いみっともない心と、少しずつ向き合わざるをえなくなって、それでも蓋をしようと格闘し続けた。

 私の暗い醜い卑しい心は、それでもそのひとつひとつに正しく対面して、大半を受け入れてきたとはいいがたい
 以前、自分の激しい嫉妬心に気づいて苦しんだのは、その最初の対面といえたが、まだまだ対面すべき「自分の暗い心」がたくさんあると最近気づいてきた。

 釈迦の教えを学ぶまで、私には「見ていい心」と「見てはならない心」と分けていることも気づかず、「見てはならない心」は「あってはならない心」で「なかったことになった心」だった。

 しかし、繰り返すが、あるものはある。そのことを、釈尊が教えてくださった。

「立派な家庭人」になる夢に挫折したとき、私は鬱病を発症しはじめ、それまでの蓋をしていた感情をおさえつけていることができなくなった。すでに激越な憎悪の問題は、19歳のときに一応の解決をみたが、それ以外の嫉妬や怒りや貪りの問題は、「なかったことにした」ため、まったく手つかずであった。

 その結果、中年になってから酒の力を借りて人と論争し、ぶつかりあい、攻撃し罵倒し、怒り狂った。自分をだましたカルト教団へも怒りにまかせて訴訟問題寸前になるまで、徹底的な批判を繰り返した。それは、まるで酒を飲んで怒り狂う父や祖父のようだった。彼らは腕力による暴力をふるったが、私は筆の暴力、言葉の暴力をふるった。怒りをぶちまけたという点では、なんの違いもない。その結果、暴力的な人脈が、一時的にだが、できたこともあった。

 酒乱の父や祖父を見て、怒りはよくないから、怒らないようにしようと生きてきたつもりだった。だが、それは蓋をして我慢しただけだった。怒ることのない優しい穏やかなパパになりたかったはずなのに、現実は酒乱一族を証明するご乱行だった。

 そして、いま「女性に養われたい」という、みじめな弱い臆病に見える心の正体が、「貪り」の現れであることが、やっと自覚できた。
 これは、愛する女性を物質的・精神的に「むさぼる」行為なのだ。「怠惰」とか「寄生(パラサイト)」とかいわれるが、本質は「貪欲・貪り」にほかならない。貪りは「もっとくれ」「もっとよこせ」「もっと恵んでくれ」しかいわない心だ。お返しすることも知らず、他者に与えることも知らない。以下の旧約聖書の一節を思い出す。

旧約聖書 「箴言」30章15節
 蛭(ひる)の娘はふたり。その名は「与えよ」と「与えよ」

 私の生家の祖父母は、まさにそういう人たちだった。私は確かに彼らの孫だ。彼らの心を、わたしも生きている。彼らと同じか似たカルマの流れのただ中に生きている。

 なんと不健全で醜く悪意を帯びた異常な心を持ったまま生きてきてしまったことか。それでもこれが、私の心なのだ。

 低俗で幼稚で妄想的な病的に過敏な私の心よ、あらゆる苦しみと喜怒哀楽と目をそむけたい情けない感情ばかりをつくりだす私の心よ。

 しかしながら、怒らなければ怒りの恐ろしさはわからず、貪らなければ貪りの恐ろしさはわからず、愚かさを現わさなければ愚かさの恐ろしさはわからない。愛さなければ愛の尊さはわからず、奉仕しなければ奉仕の尊さはわからず、智慧を現わさなければ智慧の尊さはわからない。
 サン・テグジュペリは、『人間の土地』の中で、「人は、人間の働きをしてみて、はじめて人間の苦悩を知る」と書いている。
 これが自分なりの人間の働きの結果だとしても、自分の心を、自分のものだと全面的に認めて知るために、なんと多くのまわり道をしてきたことか。

 それでも、自分で自分を否認否定しなくてよくなった不思議な喜びと安堵がある。隠して背負っていた否認された心の頭陀袋をやっと背中から降ろした気分だ。

 その袋を開けて、その悪臭と不潔さに満ちた心をとりだし、洗ってゆかねばならない。

 本当に、私は自分の心を知らなかったのだ。否認という自分でつくった防壁をこわして、内にある心をとりもどす。
 それは、否認して、存在しないことになっていた、もう一人の私自身との再会である。
 私は、その自分の心に告げよう。
「お帰り、暗くて愚かな私よ。今まで無視してきて、本当にすまなかった。これからは、ともに生きていこう。きみがどんなありさまであっても、私はきみを愛している」

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by ecdysis | 2019-02-28 17:08 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

回復には「喜び」が必須

 罰や非難や批判や悪評や恥辱を恐れて、その恐れを動機として、「まじめに」しているのは本当の「まじめさ」だろうか。
 もちろん、私も含めて多くの人たちは、大なり小なり、自分や家族や知人たちに罰や悪評や恥がくわえられることを「恐れ」て生活している。

 それは、しかし、恐れという鞭で駆り立てられる家畜みたいなものではないかと思える。
 そういう「恐れの鞭」を自分に加えて叱咤するのは、本当に良い生き方といえるのだろうか。
「恐れ」を動機にまじめにしてきた自分は、「恐れ」がなくなると、今度は虚脱して、だらけてふんばりがきかない。
 また、「恐れ」を動機に、完璧にしようと努力してきたが、完璧にはとてもできない事実を知り、逆に「恐れ」だけが宙に浮いて無意味になる。

 鞭打たれなくなった家畜は、好き勝手に散歩して草を食いに行ったり獲物を追いかけにいく生来の行動をとる。そうしないで元の場所に戻って首輪やくびきをつけられるのを待っている家畜は、馴らされきって、もはや自前の行動がとれない、一種、病的な状態となる。鞭打たれることに慣れきって鞭打たれないと働く気にも生きている気にもなれないという状態だ。

 権利とか義務とか責任とかいうのも、「それをやらねば恥」という「恐れ」を根底とした理念である。
 もし、本当に生活の心配や恐れを放棄して、自分自身の真実に純粋に忠実に生きようと思ったら、出家者になるか、さまざまな芸事のスペシャリストになるなど、自己実現の道を多くの人々が選ぶはずだ。

 よく自己実現を「夢を追いかける」という言葉で表現する。自己実現はすなわち何かといえば、「自己表現の喜び」という「喜び」に生きるということだ。だから、恐れに追われる生き方をしている人たちから見れば、「夢を実現した」人たちは、「自己実現」の「喜び」に生きている人たちだから、憧れと羨望の的ともなりファン心理ともなる。

 つまり、今自分がやっていることに、喜びや充実感や楽しみがなく、ただ恐れだけを動機として生き続けることは、人としてあるべき姿ではないといえるだろう。ACや依存症や心を病む人々は、そのことをもっとも深刻に残酷に体現している存在といえる。

 たとえば、薬物依存症者が薬を使い続けると、ひどい被害妄想に陥り、薬物をやめてもときどき強迫的フラッシュバックが起きるように、根底的な「恐れ」があると、いつまでも自分を鞭打つことになる。

 眼前の現実から、私も酒や恋愛で逃げてきたが、「逃げる」とかならず「追いかけられる妄想」が生じる。現実にだれかから何かから追われているわけではないのに、「追われている感覚」が生じて「さらに逃げなければ」という恐れが強化され、さらに依存症状が進行する。

 こうして見ていくと「恐れ」を打ち消すのは「喜び」だけなのだとわかる。まるで「不運」「不幸」を「幸運」「幸福」が打ち消すように、100%ではないにしろ「恐怖」は「喜び」によって打ち消される。

 その喜びを「歓喜」といってもいい。神社仏閣の祭礼・参詣・縁日や、遊園地や映画や、さまざまな芸能人のコンサートなどのイベントやプロスポーツの応援などで、私たちは「歓喜」する。それで生きるちからをもらって、恐れを動機とした日常生活の不健康さを補償している。

「よろこび」とはかくも重要で、健康に生きるために必須な魂の栄養素なのだとわかる。
「恐れ」のために生き続けてきた私のような人が、「喜び」のために生き方を変えられるように、神様、どうか私を励まし、どんな小さなことにも喜べる人間にしてください。恐れの生き方を続けさせようとする「敵(サタン)」の誘惑と悪だくみからお救いください。

 恐れは苦である。苦痛は恐れを産む。肉体の苦痛は恐怖を起こし、その恐怖は心に苦を産む。苦痛がとらわれを産む。とらわれは心に苦を産む。恐れは苦痛の原因であり結果である。恐れと苦痛は因果の関係にある。苦痛を与える家族とそれを恐れ苦しむ私は、苦痛を因とし家族と私を縁として恐れという果を形作った。その逆のパターンで「恐れ」を「喜び」に、「苦痛」を「快楽」に置き換えても同等の因果が導き出される。

 特記すべきは以下。ACの恐れは劇的な苦痛の体験によって生じた。それを打ち消すのは劇的な喜びとは限らない。むしろ、穏やかでささやかな喜びの集積によって癒され救われる。凍った心を溶かすのは溶岩や熱水ではない。春の日差しと温かい風にほかならない。

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by ecdysis | 2019-02-12 04:30 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

 なぜ、いまさら祖母の狂気を思い返すかというと、実は若い頃から、ときおり狂気の小さな衝動が起きる。それはつねに妄想であって現実には起こさないが、自分で思い浮かべて自分でぞっとする加害妄想で原因がわからなかった。私は酒をやめて15年たったが、今でも以下のような妄想が瞬間的にわいてぞっとすることがある。
 もしそれらの妄想のひとつでも実行していたら、いまこうしていられるはずはない。実際に行使したことはまったくない。
 自分の中で時々起こる、こうした自分の意志に反する突発的な衝動性の小さな狂った妄想を列記する。

・電車のホームで人を突き落とす。あるいは自分が電車に飛び込む。
・冷たいものや熱いものを人の素肌に押しつける。
・幼児や乳児を逆さづりにして振り回す。
・通りすがりの異性に痴漢行為を働く。
・刃物で自分を傷つけるか他人を傷つける。
・マンションのベランダから通行人のいる地上へものを投げ落とす。
 
 いずれも犯罪で、狂った行動だ。なぜこのような自分でも忌まわしい妄想が起こるのか、身震いしながら長い間謎だった。
 しかし、この狂気は、一種のフラッシュバックではないかと思い当たる。気も狂いそうな恐怖と衝撃を私は幼少年期に幾度か味わった。そのトラウマは深刻だったし、いまだにすべてが癒えたとは言えない。気の狂った祖母と住んでいたのだから、狂った心があってもおかしくはないが、恐ろしすぎる。
 だからこそ、そのときの気も狂わんばかりの子供の意識が、私の心に作用して何事かを伝えようとしているのだと思える。

 おそらく、うわ~と泣いて言葉にならない恐れと苦痛と絶望と嘆きの叫びをあげているのだろう。
 私は、それを聞いて、そこにいるということを見つめる。否認は決してしないし、あってはいけないとも、いてはいけないとも決して想わない。
 私は気も狂いそうに怖かったときの自分を思い返し、その涙と苦痛と叫びをあるがままに受け入れる。おそらく、その必死な狂気の声が残って響き続けているのだと想うが、それも自分であると認めて生きていくのはもちろんだ。
 私と、その子供は同じ素材、たとえばひとつのお餅の上に生じた大小ふたつのふくらみのようなものだ。だから、両者が手をつないで歩いたとしても、それは親子でも兄弟姉妹でもない。私は、その幼子の分身であるし、その子は私の分身なのだ。私は、彼であり、彼は私なのだ。だから、自分の内なる子供に対して、今の自分が親になれないというのは当然のことで、親子以上の関係性を有しているというのが正しい。

 いまあげた私の狂気の妄想は、ひとつひとつが、祖母の母をひどい目に遭わせたいという虐待者の悪意が現れたものだとすると、関連性があることがわかる。自分か他者を傷つけるという妄想も、のちに祖母が自殺したことを考え合わせると、やはり祖母の影響があるのだと思える。

 これらは、「祖母への恐怖」という一語で総括されそうだ。幼児期の私が迫害者である祖母、虐待者である母の二重の攻勢を受けながら、だれにも助けを呼べずにいた苦しみと、「だれか助けて!」と叫びたかった心が、異常な狂気のような妄想の形で現わされているのだ。

 その「恐怖」の病は、祖父に虐待された祖母と、姑である祖母に虐待された母と、母から虐待され。また父からも直接間接に肉体的精神的な虐待を受けた私という世代連鎖をなしている。

「恐怖」を動機とする行動は、かえって悪い事態を招くという事実を学んではいるが、心をひりつかせるトラウマによる「恐怖」の火は、まだ私の中で消え去ってはいない。その「恐れの火」を吹き消さねばならないのだ。

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by ecdysis | 2019-02-09 00:54 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

 私のこの病というべき恐怖の根源の大きなひとつには、凶暴な精神障害者だった祖母とのかかわりにあったことは間違いない。
 妄想性の過敏さをともなう人格障害者だった祖母は、アル中の夫である祖父と嫁である母への憎悪と被害妄想に満ち溢れていた。日常的に粗暴で気の狂った言動で、私や弟妹や母を常に怯えさせてきた存在だった。

 しかし、私が成人するまで長年にわたって家族であった祖母から、自分の予想をはるかに超える深刻な悪影響があったのではないかと気づきはじめた。無自覚のうちに、彼女の「病的な心」を受け取ってしまったのではないかと、最近、とても気になっている。
 自分が恐れて憎み嫌った家族から、その家族のネガティブな言動を、知らずにとりこんでコピーしてしまう現象が起こっていたようだ。まるで病原性ウィルスのような「精神的感染」現象が起こるということに気づいた。

 親が依存症でACになり、やがて同じ依存症を発症した子供たちは、最初は「親のようにはなりたくない」とだれもが思っていたはずだ。ところが、そのように意志するものの、実際には親と同じような大人になってしまう。
 意志だけでは親と同じになることを避けることはできない。私もそれを思い知った。

 祖母の精神状態がいかであったかは、私自身が18歳のころにまったく同じ精神に異常をきたしたのでよくわかるし、それゆえに一時は殺害を決意するほど憎んだ祖母を許すこともできた。その経緯はすでに、このブログでも記した。
 しかし、許す許さないの次元とは別に、彼女と同じ屋根の下で暮らすことによって受け取ってしまった悪影響の吟味は、この三十年間してこなかった。それを分析し、しっかり表現する時期がきたのかもしれない。

 ふりかえれば、幼稚園時代にいじめられていた恐怖が、人生最初の恐怖体験として大きく映るが、実はすでに三~四歳のころ、かなり強いストレスを感じていたことが、想い起こされる。
 当時の一枚の写真がある。母の膝の上に抱かれてミルキーの箱を片手につかみ、父と三人で撮った写真があるが、母に抱かれた私は泣きべそをかくような顔をして、まったく幸せそうではない。
 おそらく妹が生まれてまもなくで、「ちゃんとしたおにいちゃんになりなさい」という、母の私への支配的子育てが開始されてまもなくだ。
 母の前に正座させられ、「これからは、かあちゃんのことを、かあちゃんではなく、おかあさんと呼びなさい」と一方的に慣れ親しんだ母の呼び名の廃止宣告されたころだ。困惑し母親に素直に甘えることができなくなったと感じたできごとだった。 
 その一方的な宣告には三歳時の私は大いに不満で怒りを覚えているし、手足をばたつかせて叫びだしたい気持ちになっている。ひとことでいうと「ふざけるな」という怒りだったと思う。

 また、被害妄想の強い人格障害だった祖母への恐れも、私に伝染していったようだ。祖母は、同居する若い息子夫婦の稼いだ金銭を搾取していて、どんなささやかな贅沢も楽しみも許さなかった。
そのため、母から以前、聞かされたが、2歳のころの私に、お菓子を買ってあげるのも、祖父母の目を盗むように気をつかって、私にこっそりとくれたのだという。祖母にそれを知られると無駄金を使ったと叱られるので、母は私に「いいかい、お菓子をもらったって、だれにもないしょにするんだよ」と、私に命じたのだという。
 しかし、子供の私には母のいうことが理解できなかったらしく、お菓子をもらってうれしかったのか、翌日、祖母のいる前で「かあちゃん、きのうお菓子をもらって食べなかったもんね~」とあどけなく告げて、母をあわてさせ祖母を怒らせたという。

 同じように、3歳ぐらいのとき、祖父に庭先のものかげに呼ばれ、「さあ、はやくこれを吸って食え」と卵の先端につまようじの先大の穴をあけた一個の鶏卵を差し出された。
 半世紀前の東北の片田舎では、卵は、牛乳・バナナなども同じだが、今では想像もつかないほど貴重な食品だった。なにしろ、農家が鶏を飼って生んだ卵を、一個単位で納入してその代金を農協の個人の預金通帳に積み立てる「たまご貯金」という名目の口座が当たり前だった時代のことだ。もちろん、私の生家でも鶏卵は現金収入の手段のひとつだったらしく、祖母が卵を自家消費することを嫌って目を光らせていた。当時は乳牛も飼っており、生乳の缶を集荷所に持っていく父たちの姿をおぼろげに覚えている。
 刺激すると面倒な祖母の目を盗んで、祖父が孫かわいさに、卵をこっそり一個失敬して、食べさせてくれたのだ。
 そのとき、祖父も私にこういって卵を渡した。
「早く食え、ばあちゃんにみつかんないようにな。卵もらったっていっちゃだめだぞ」と、また幼児に口止めである。
 家族として当然の愛情表現の食べ物をもらって、なぜ口止めされねばならないのか。なぜ、素直にありがとうといわせてくれなかったのかと、今の私なら抗議するところだ。

 この時点で、すでに両親も祖父も、祖母の人格障害に巻き込まれて、私もその病理に巻き込まれて、人からものをもらうことや、してもらうことに、素直に感謝できず、罪悪感や秘密のもどかしさをともなうようになっていたのだと思う。
 そのとき、祖父からもらった卵の黄身の甘さは、いまだに記憶に残っている。おいしい卵だった。
 このように、家族全員から恐れられた祖母を、私も妹も、のちには弟も恐れるようになった。その恐れは、恨みになり、憎しみにもなった。

 祖母には、以下のような病気の言動があった。
 まず猜疑心。たとえば身の回りものがなくなると、根拠もなく家族のだれかがとって隠したことを疑う。また、わざとなくしたふりをして、母にいいがかりをつけることもたびたびあった。
 罪のないもの、正しいものを、ひきずり落とし、無傷のものを傷つけたいサディズム。清らかなもの美しいものを、その清さと美しさのゆえに憎み呪う。自分が持てないと思ったものを持っていると感じた相手を激しく嫉妬して憎む。
 自分は不当に嫌われており、家族がいつも自分について陰口をいっているという妄想を持っていた。

 他人の悪意や反感には極度に敏感で、即座に暴言を吐いて罵り、ひどい場合は暴力をふるったり唾を吐きかけたりした。
 家族以外の赤の他人への外面だけは非常によかった。列車や旅館でゆきずりに出会う人たちには、家の中では想像もできないほどの快活な善人を演じる。その出会った人たちがみな、「こんなおばあさんなら、うちにもいてほしい」というほど、陽気で愉快で人のいいお婆さんに変身する。しかし、家に戻ったり、身内になったり、入院先で同室になったりした人たちには、気の狂った鬼婆である。

 おそらく本人も原因がわからなかったと思うが、いつも不機嫌でいつも怒りっぽく、手負いの獣のようだった。私たち家族は、本当に腫物にさわるように恐れながら暮らしていた。祖母が温泉に宿泊湯治にいったり旅行にいって家をあけるときは、本当にほっとしたものだ。
 もちろん、祖母が戻ると、彼女はすぐに自分がいない間に、家族が自分の悪口をいって自分をのけものにして楽しいことをしたのではと、疑惑の探索をはじめるので、祖母が帰宅すると家じゅうが緊張していた。

 うつ病も持っていたらしく、入浴することが少なく臭かった。母が嫁にくるずっと前に肋膜炎の大手術をしたが、それは夫である祖父が酔って自分を蹴飛ばしたからだと何度も被害者であることを訴えていた。私が高校生になって祖母に反抗して突き飛ばすと「孫にまでいじめられる」と自己憐憫の涙を流すこともあり、深刻な病的自己憐憫の持ち主だった。

 これらの祖母と同様の行為、もしくは精神態度や妄想を私も受け継いでいるのではないかと気になる。実際に小学校五年のときに、人を疑う私の悪い癖を、母方の祖母に指摘されていたほどだ。

 もちろん、そんな祖母を恐怖しながら冷や汗をかきながら仕えていた母の恐怖をも、私は受け取り、そんな母のストレスのはけ口のように、私自身が母から虐待された。だから、私は祖母と母の二世代の狂気とストレスをまともに受け取って育ったのだ。
 その逃げ場のない「恐怖の家」を、なんの心の麻痺も逃避も依存もなしに生き延びることは不可能だった。

 そういう環境で、まずアルコールが苦手だった母が、飲酒による快感への逃避を覚え、私が中学校2年のときには、キッチンドリンカーになっていた。私や弟が同様になることも不可避だった。
 こうした環境下で、アルコール依存症になり、引きこもり・うつ病・被害妄想・誇大妄想・パニック障害・対人恐怖・女性依存・抜毛症など、一通りの症状を経験してきた。

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by ecdysis | 2019-02-09 00:47 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

 母親からの虐待や祖母・祖父への恐怖や幼稚園でのいじめで、小学校低学年のころまでの私にとって、世界は恐怖そのものだった。出口のないお化け屋敷にいるようなもので、すでに幼児性の抑うつを発症していたとわかる。

 そんな中で、私が安心してかかわれる相手は、3歳下の妹だけだった。妹という自分より弱い相手とかかわるときのみ、安心できるという人間関係の構図が、すでにそのときつくられたのだとわかる。

 六歳のとき、父母と妹と四人で県内の港町に引っ越しアパート暮らしをはじめた。父は首都圏に出稼ぎにでかけて、母子で三人暮らしだった。そのころ、兄だからという理由で、妹の面倒をみるよう言われて、母が私たち兄妹だけを残してひとりで買い物にでかけて、私はひどい孤立感を味わった。あのときは母が帰ってくるのを待ちかねて、妹の手をひいて母をさがして外に出て、迷子になって大泣きした。近所の見知らぬおじさんおばさんに助けられて、あとで母に引き合わせてくれたからよかったものの、幼い子供二人をおいてひとりで買い物へいくかねと、今の私なら当時の母に文句をいいたいところである。その後、やはり子供時代に妹と二人で孤立感を味わう場面があり、私は自分が寂しいときに、自分が面倒をみるべき弱い立場の相手と一緒にいるというシチュエーションに適応してしまったのだろう。

 こうした自分の「自分より弱いものへの傾倒」は、大人になると「自分より弱いものに引きつけられる」というACの特徴となって現れるのを自覚した。脳内に、トラウマと恐怖と有力感の回路ができてしまったのだ。

 私は、病的な女性とばかりかかわってきたと何度か書いてきたが、それもそのはずで、すでにアルコール依存を発症するほどのACである私が、「安心できる自分より弱い相手」を選ぶとすれば、それは「自分よりも重症のACの女性」しかいないではないか。
 すなわち、私の異性関係の基本は、この「自分より弱い相手に安心を感じる」という感覚そのものに問題があると見えてきた。
 これは、別の言い方をすれば「自分の方が優位である場合に安心感を覚える」という「相手への有力感」にほかならない。つまり、「相手への有力感」と「安心感」がイコールで結ばれているのは、不健康なことなのだとわかる。

 なぜなら、本当の安心感は、自他の比較の必要はなく、自分が無力で弱くても大丈夫であるという、他に自分を全面的にゆだねている気持を基本とするからだ。
「自分の方が優位でなければ安心できない」というのは、本当の安心感ではない。それは条件付きの安心感であるがために、決して身も心もリラックスできる安心感には至れない。
 大切なのは「自他の優劣」という比較競争ではなく、「自他の平等対等」という家族内で体験すべきだった健康な関係性なのだ。
 私はアルコール依存の自助団体に通い、そこの人々とつきあいを続けることで、「対等な人間関係」を初めて実感するようになった。

 自分より弱いものに安心を感じるということは、逆に自分と対等か優れた相手には、恐れと不安を感じるということだ。それが、対等か自分より優れた相手への嫉妬や非難や中傷や攻撃などに変形された悪意として発現する。しかし、その場合、わたしもそうだが、恐怖を感じる相手への恐怖を自覚することはほとんどない。ただ、恐怖は、その相手への過敏な非難や嫉妬やネガティブな評価という感情で現れる。しかも、その非難・嫉妬・否定的評価が、内なる子供の恐怖が変形して現れているという自覚もほとんどない。

 さらに、その内なる子供の恐怖は、あくまで主観によるもので、客観的に恐怖すべきものかどうかは問題ではない。内なる子供が「こわい。いじめられる。痛めつけられる」という脅威を感じたら、もうそこで恐怖による感情行動が発動してしまう。

 深刻な恐怖に打ちのめされた子供の私は、「自分より劣ったもの相手なら安心である」という体験によって、自分から見て自分の方が優れていると思う相手ばかりを友人に選んだ。一時期、近所の友達が全員女子だったこともあるほどだ。

 その一方で自分が有力になっていく方法を探した。自分が有力になれば、その分、自分より劣った相手の数が増える。それは、自分にとっての安全圏の拡大を意味し、安全圏の拡大は恐怖を遠ざけることになる。

 相手より優位に立つ方法は、私の場合は学校の成績をよくすることだった。恐怖から逃れるために、学校の図書室で貸し出す本の読書を好んだ。その結果、知識が増えて、ほかの児童生徒より理科や社会のテストの結果がよくなり、有力感が増したため授業でも積極的に手を上げるようになり、教諭の覚えもめでたくなり、私の学校での安全圏拡大はひとまずうまくいったけれど、家に帰れば相変わらず、そこは恐怖と脅えに支配された場所でしかなかった。むしろ、学校で安全圏が拡大するのと反比例して、家庭の状況は悪化していった。

 いわゆる「家ではいい子、学校では優等生であること」が唯一の保身だった。しかし、高校が進学校だったため、私はもはや優等生ではいられなくなった。私を支える「安全圏」が消失した。私は、もはや自分には価値がないと感じ、ひどい劣等感にさいなまれ、優等生であることで否認してきた自分の生い立ちのひどさを見ざるをえなくなり、16歳のときにフラッシュバックが起こって精神的に壊滅状態になった。その先にアルコールが手をのばせばすぐそこにあり、母と同じく生きる苦しみを泥酔することによってまぎらわせ麻痺させることを覚えた。

 私の短気ないらだちや怒りっぽさや妬み深さも、「恐怖」が関与している。アルコール依存症の症状であると同時に、それは同じ病気だった祖父の心であり、粗暴で理不尽な言動を重ねた人格障害の祖母の心でもあったと気づく。
 これは、とても生きづらく苦しい感情生活だ。ささいな他人の言動に責めと裁きの憤りを発し、自分よりすぐれた言動や業績をあげている人間を見ると、むらむらと妬みの心が湧いて不愉快になる。心の狭さというものは、他人を不愉快にさせるのはもちろん、本人にとっても苦しみでしかない。心の狭い人は、その心の狭さによって本人がいちばん苦しんでいるのだ。

 釈迦やキリストの教えや神道・儒教の学びをする一方で、こうした幼児的で病的な感情に苦しめられる。これは、私が祖父母におびえ恐れ苦しめられた生い立ちのうちに、彼らから刷り込まれ、また無自覚のうちに学んで習得してきたことだとわかる。

 つまり、私は心の病み方も傷つき方も、心の狂い方も、祖父母から学んだということだ。

 その学んだ心の病み方の根底にあるのは、「恐れ」だ。屈辱を受けること、排斥されること、孤立させられること、笑い物になること、挽回しようのないどん底の恥のただ中に置かれること、責めと裁きに追いつめられること。それらを何よりも恐れていたことがわかる。
 それらの「恐れ」は、実はアルコール依存症の祖父が、酔って自分の住む村落と近隣の人々に迷惑をかけた結果、こうむった非難と蔑視の経験のはずである。根拠も理由もなく、責めや裁きを健康な人々が下すことはない。

 祖父がアルコール依存症になったのは、親である曾祖父が酔って日本刀をふりまわす酒乱だったことにある。その幼児期の救いようのない強烈な恐怖のトラウマ体験があったからだと推測できる。自分の生存が極度に脅かされるという恐怖の体験がトラウマとなり、そこからアルコール依存症や、十五歳ごろから売春宿に入り浸るなど性依存症に陥ったと考えられる。アルコール依存のあげく三十三歳で死んだ私の弟も、父親を極度に恐れ憎んだまま死んでいった。
 祖父も、トラウマと依存症が発症して進行するプロセスで祖母と結婚し、五人の子を育てなければならなかったのだから、そのストレスは筆舌に尽くしがたかっただろう。

 人間として非常に不健康な人格形成をおこない、心の病気を発症している祖父のような男が、ちゃんとした家庭を営むのは無理だ。あるいは、私の父親は明らかな発達障害なので、祖父もそうだったのかもしれない。

 ゆえに、私の怒りや妬みの問題は、実は私自身のみならず、親や祖父母たちにもあった問題であるとみなせる。
 人は対等な会話においてこそ孤独を癒す。対等でない支配・被支配の関係は孤独しか生まない。アルコール依存症による典型的な症状である自我肥大は、孤独感・孤立感を産んで、ひとつもいいことはない。加えて、特有の「わたしは正しい、みんな従え」という気持ちも救いようのない孤独を生む。曾祖父も祖父も父も母も弟も私も叔父叔母も、全員がその「酔いの孤独感」に打ちのめされて死んでいったのだ。

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by ecdysis | 2019-02-09 00:32 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)