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 二日ぶりにコーヒーを飲んで興奮状態になったためか、昼休みに不思議な感覚に包まれた。
 昨年からときどき起こる、通行人の高齢者や身体に障害のある人たちにとくに感じる「その人はその人をやっている」という感覚だ。もっと詳しくいえば「その人の内在する魂が、現世の今の姿をとり続けることを、自覚せずに本気で生涯かけて使命として遂行し続けている」という感覚である。そのとき、私は名状しがたい感動にとらわれ、なんともいえないありがたさに涙がこみあげてくる。 

 その人が、その人となるために、その人のうちなる魂・神・仏が、産声を上げたときから現在まで、ずっとそのひとの肉体の奥にあって、その人にしか体験できない人生を使命として、自我とともに丸ごと生き続けている。その内なる魂・神・仏の気高さと勇気とに、ただただ「あなたがたは尊い存在です」とありがたくて拝みたくなる。「その人が、その人をやっている」という感覚には、その人が「生きて存在していること自体が尊い」という想いしかわかない。

 むろん、通りすがりのその人の名前も年も住所も経歴も何も私は知らない。通常なら無関心に過ぎ去る赤の他人である。
 しかし、私はそういう感覚になると、もはやその人に無関心ではいられなくなる。その人が、その人であることが、かけがえのないありがたい尊いできごとに感じられてならない。それは「存在そのものへの尊さの感覚」としかいいようがない。

 その感覚を、もっとほかの人たちにも広げてみると、驚くべきことに、すべての通行人が、各人固有の比較できない「尊さ」をもった「気高い存在」に感じられて茫然としてしまう。そして、それが事実であり真実であることを、私は心の奥で知覚する。
 その「尊さ」の前には、その人の肉体的外見や性的魅力の有無は無意味となる。すべてのひとが、無条件に尊いという感覚になれば、外見の美醜や容姿にとらわれることは、むしろ邪魔になるとわかった。

 すべての人が尊いと感じるためには、外見の美醜容姿にとらわれないことが必要だとわかった。いな、外見の美醜容姿に囚われてきたからこそ、今まで一人一人の魂としての存在の尊さがわからなかったのだ。人々に囲まれ人々とともに暮らす私は、ほんとうは「無条件に尊いもの」たちばかりの中で暮らしていると気づかされた。

 私もあなたも彼ら彼女らも、みな一様に「もともと尊い存在」なのだ。その尊いものはダイヤモンドにたとえられる。ダイヤモンドに、もし心があったら、自分のことを価値のない石ころだとおもいこんでいたとしても、決してダイヤ以外のものになることはない。人の魂も同じだ。自我がどれほどの悪人でも善人でも変人でも凡人でも、そのうちにある魂はダイヤモンドだ。

 自我がどれほど汚れて惨めで醜くても、それが魂のダイヤを変質させることはない。今の私やあなたが、いかなる状態にあろうと、魂というダイヤモンドは傷つくことも汚れることもない。たとえ泥をかぶっても糞便だまりの中に落とし込まれても、ダイヤモンドがそれ以外のものになることはない。見つけだされて洗われれば、ダイヤモンドはただちに本来の無傷の美しさを取り戻す。

 私たちの自我・心は傷つき血を流し苦しみ穢れに満ちている。しかし、その奥には無傷の魂というダイヤモンドがあって、自我との出会いを待っているのだ。

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by ecdysis | 2019-02-23 01:25 | スピリチュアル | Trackback | Comments(0)

引用元『コーラン』(責任編集:藤本勝次/中央公論社・「世界の名著」15/1970年9月30日)

牝牛の章(第2章)

219節 酒と賭矢について、人は汝に尋ねるであろう。答えてやれ。「それらは人々にとって大きな罪悪であるが、利益にもなるだが、罪悪の方が利益よりも大きい」

以下※は心炎の補注
※これは神アッラーが預言者ムハンマド(マホメット)に託宣した言葉。「汝」というのはアッラーがムハンマドをそう呼んでいる。
「賭矢」とは、当時7世紀のアラビアのギャンブルの一種。引用元の訳注にはこうある。
「十人で一頭のらくだを買って公平に肉を分配し、十本の矢をくじとして引き、空くじを引いた三名の者がらくだの値段を支払うという賭事」

食卓の章(第5章)
90~91節 信ずる人々よ、酒、賭矢、偶像、矢占いは、どれもいとうべきものであり、サタンのわざである。それゆえこれを避けよ。そうすれば、おまえたちはおそらく栄えるであろう。サタンは酒と賭矢などで、おまえたちの間に敵意と憎しみを投じ、おまえたちが神を念じ礼拝を守るのをさまたげようとしているのである。それゆえ、おまえたちはやめられるか。

※信者たちに向けた言葉なのがわかる。
現代風にいえば、飲酒、ギャンブル、偶像崇拝、職業的占術などのこと。偶像崇拝は、教祖と幹部によるカネと人集めが目的のカルト宗教と言い換えられるし、占い師も客の金品を目的に詐欺を働くので忌まれたと思われる。形あるものを拝むのが偶像崇拝なのではなく、拝む目的と対象が利己的で私利私欲の現れであることが偶像崇拝に当たる。職業的な占いも、占い師の私利私欲のために客が利用されることで被害が生じるので避けよと命じられている。
サタンとは悪魔であるが、もともとは「敵」という意味。慈愛深い神はサタンを「敵」とは思召さないが、サタンの方が「神を敵視している」のである。
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by ecdysis | 2019-02-09 14:29 | スピリチュアル | Trackback | Comments(0)

渇愛はACの自分の源

 渇愛という欲愛は、前世からひきずる足枷の鎖玉のようなもので、まさに煩悩具足の凡夫たる私自身の正直な姿です。
 生まれてから、この鎖玉をはずしたことが一度もありません。五官に感じる名前と形のあるものに強く依存し、渇愛の奴隷として生きるのが当たり前だったので、解放奴隷の自由人になれたことも一度もないのです。

 私は、解放されたい。カルマの煩悩から、渇愛の奴隷状態から解放されたい。

 必要だったのは安心できる安全な時と場でした。今の私には、その場があるし作り得ます。座禅によって、神社と神棚への礼拝奏上によって、安心安全な自分の居場所を確認できます。内省がそれを可能にしました。

 そうなりはじめてから今にいたるまで、十数年かかっています。それでもまだ穢れを愛し求め、穢れを楽しみ欲望する自分がいます。卑猥で幼稚で卑怯かつ盲目な欲情にすがりついている自分です。それが「渇愛」というものであることを、最近学んだばかりです。

 渇愛と知らずに依存していた。そうせずには生きのびられないほど、過酷な家庭環境でした。家庭や職場や恋愛や知人関係など、現実の人間関係の与えるストレスが過重でした。
 その過重さを緩和しリラックスさせる息抜きやストレス解消の手段が酒や自慰などへの依存でした。恋愛感情への依存は、過重な責任や仕事でふんばるためのものでした。自分で自分を励まし、義務と責任をまっとうさせる励みだったのです。
 祈りと座禅を両立させるまでは、日々のストレス解消の手段は、依存のほかにはありませんでした。

 神道の教えと、座禅と仏教の素晴らしさを知らずに生きていた時代の苦しみたるや筆舌につくしがたい。アダルトチャイルドということばだけで到底くくれるものではありません。

 とにかく、渇愛を自覚できず、苦を苦と認識できませんでた。苦のもとを苦のもとと自覚できず、安楽や快感のもとだと思いこんでいました。だから、「一切が皆、苦である」という法印が理解しにくかったのです。そのときは、快楽で愉悦であっても、時間がたてば同じ楽しみが二度と来ないことを知り、求めても得られず戻ってこないことを思い知る苦しみになります。これを「壊苦(えく)」というそうです。

 しかし、自分と他者、あるいは他者どうしの間での出来事の多くは、苦しみや悲しみに終わることが多いです。貪り、怒り、高慢、愚かさに加え、恐れ、憂い、嘆き、悩み、妬みのともなわない人間関係を、人はどれだけ持ち得るでしょうか。
 もちろん、喜びや楽しみの多い関係もあります。しかし、それも毎回、いつでもというわけにはいきません。楽しい思い出という記憶にはめぐまれても、必ず互いの老・病・死の苦痛と悲しみがやってきます。

 ストレスが強まると、何かとみだらなものでまぎらわせようという想いがわき、パソコンの淫猥なサイトの画像を見てしまいます。すれちがう女性たちに押さえつけている欲情の炭火が熾きます。煩悩の焔と簡単に表現して済むものではないのです。
 これが、私が穢れを欲し穢れを愛している証拠です。欲愛の炭火が燃えています。それを消火しなければ霊的平安はありません。涅槃(「ニルヴァーナ」)とは「吹き消す」という原義だそうです。煩悩の火を消してしまい灰にしてしまうのが涅槃なる悟りの境地なのでしょう。

 雑念妄念は、盲目の欲望たる渇愛より起こります。ものごとに集中しているとき以外、雑念と妄念は絶えず起こります。しかし、雑念は善でも悪でもありません。生きていれば必ずあるものなので、それを裁いたり自己嫌悪したり否認したりは意味がありません。それは、大小便の排泄欲求と同じようなものです。頭でいくら否定しても、あるものはあるし排泄しない限り楽にはならないのといっしょです。善悪や理非曲直などの価値観・判断の対象ではありません。

 雑念妄念やとらわれは、自分の心に関する無知、すなわち無明によるといえますが、無明とは、言い換えれば「闇」「盲目」ということです。盲目で生きていれば、手をひいて導いてくれる人や杖を信じなければ怖くて一歩も歩めません。聖人賢哲こそ、盲目な私の導き手であり、その知恵の言葉が糧です。

 私も人も、みな現在の姿は、いくつもの過去世で経験してきたことと、現世の過去との集大成であると思うようになりました。長所も短所も善も悪も努力も怠惰も今の自分は、現世だけが原因ではないと。何回もの前世のすべての集大成が今の自分なのだから、なりたくてなった姿でもあるし、なりたいと思わずとも、なってしまった姿でもあります。
 いくつもの過去世の人生で体験した愛憎も好悪も快苦も悲喜も努力も挫折も憧れも失意も有頂天も落胆も、すべての生活経験と情緒的経験の集大成が、今の自分なのだと思えば受け入れざるをえません。釈尊の教えに従えば、そういうことになります。

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ガンジス河



by ecdysis | 2019-02-04 02:03 | スピリチュアル | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)