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祈りの前提

 かつて、ハイティーンのころ、その後に愛することになった人に祈ってるといわれて、私はうれしかった。
 こんな自分のために、死ぬなと祈ってくれる人がいるというのが、救いになった。

 それから、四半世紀たって、私は自助グループの親しくなった先輩に「祈りというのは届くんだよ。祈りというのは相手に伝わるんだよ」と教えられ、素直に信じることにした。

 毎朝のように、神棚に皇室と国家国民の幸福から、自分や家族親戚の無病息災、心の病やアダルトチルドレンの人たちの回復(シラフの正気と平安とすこやかな回復)を祈るようにしている。祈りだして5年くらいになるが、はじめは自分や家族のために祈っていたので、今のように国家国民やすべての心の痛みを持つ人々やACという範囲に広がったのはここ2年くらいだ。

 祈りが広がったきっかけは、インターネットで知ったインドのある宗教家の祈祷文だった。
 そこには、「自分の嫌いな人たちが幸せでありますように」「自分を憎む人たちが幸せでありますように」という文章があった。私は、自分の祈りの範囲の小ささ、自分の心の狭さを思い知らされた。

 キリスト自身も、「あなたの敵を愛し、あなたを責めるもののために祈れ」と教えているし、19、20歳のころは、それによって生き方がすっかり変わってしまった私にしてみれば、インドの人の祈りはその初心を思い出させるものだった。

 祈りは、届くときもあるし届かないときもあるようで、確かめようがないことの方が多い。それこそ、祈りが届くも届かないも神様におまかせするしかないので、「祈りがききとどけられない」と不平不満をもらすようなことはしない。それに、私が相手の幸福と勝手に思い込んでいることを、神様にかなえていただこうとするのは、相手にとってもありがた迷惑だろうから、あくまでも本人が充実して幸福と感じられるような生き方、あるいは神様の目からみて、その人にふさわしい幸福にお導きくださいと、祈るようにはしている。

 人のために祈るということを覚えると、いろいろなことを感じられるようになる。
 
 そして、今日、はっとしたのだが、祈りは「神様経由で相手に届く」のではないかと感じることがあった。
 私の場合は、日本の神々だけれど、「神様」と念じるときは、神様がその念を受け取り運んでくださるのだろうと思った。もちろん、その祈りの念が正しいものであることが前提だけれど。

 すると、神様を信じている人に対しては、祈りも届きやすいのではないかと、なんとなく思ってしまったのだ。
 多くの人たちが、いろんな無私の祈りをささげていると思う。その念が、相手に気づかれずに届き、偶然としか思えないタイミングで、だれかの祈りのおかげで、いろいろな喜びや充実や回復をもたらしているとすれば、私も日々、だれかの祈りで生かされているのかもしれない。

 神に向かって祈る人の祈りが、神によって、私のもとに、あなたのもとに届くとしたら、そして、それが祈ってくれる人の存在を少しも感じさせないとしたら、これほど謙虚で美しいことはない。

 
by ecdysis | 2010-05-23 13:22 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

愛のようなもの

 性の快楽は、愛に仕えるものであったのに、私はその逆を当たり前と思い込んできたらしい。
 性行為は、愛を表現する手段のひとつでしかないのに、それを唯一にして最大のように過大評価しすぎてきたのだ。
 さらには、誇大に考えるあまり、いつのまにか愛が快楽の手段、理由になってしまっていたのではないか。肉欲の刺激を、愛の証ととりちがえ、やがてはそれに溺れる自分を正当化し、快楽を理由付けるために、愛していると信じたことが多かったのではないか。
 結婚と子作りとに欠かせないと、言い訳し続けてきたのではなかったか。

 その挙げ句、肉欲の快楽に、自分や相手をなぐさめ、安らがせ、救う力さえあると思い込んだのではなかったか。
 だが、肉欲によって、私は救われなかった。性の快楽と刺激によって救済されることはなかった。むしろ、その方向へ行けば行くほど、傷つき苦しんだ。一時の激しい快楽の代償に、その何十倍、何百倍の後遺症を得た。はじめは蜜のように甘いが、ほどなくして、それは、にがよもぎのように容赦ない苦味〜悲嘆と悩乱〜に変じ、何年ものたうちまわったではないか。

 愛のために、特定の相手への相互の親密さの表現のために、性行為をするのはよい。しかし、快楽のために人を好きになるのは、自分や相手を傷つける自虐的あるいは自傷的なふるまいだ。愛のない、あるいは、愛の薄い、または正当化のための肉欲は、自傷行為の一種だろうと感じる。
 本能が私に与えてくれる快楽は、決して否定すべきでない。しかし、それを不適切に用いれば、苦痛になるのは当然なのだ。
 仏教聖典には、釈迦の言葉として「肉欲は、血を塗った枯れた骨をしゃぶる犬のようなものだ」ということが書いてある。

 いまになってわかるが、ACは愛に飢えているから、すぐにそれらしいものにとびついてしまい、依存する。依存するが、依存は愛ではないから、飢えは決して満たされない。満たされないから、もっと飢えて、さらにそれらしいものにとびついてゆく。そして、自分をもっとひどい状態におとしいれてしまう。私の場合、酒、タバコ、占い、ロック音楽、カルト、恋愛などなど、いろんなものに「とびついた」。

 それらの「手近な愛のようなものにすがらずにはいられない」のが、ACの典型的な習性と気づかなかったからだ。
 だが、「愛のようなもの」は、「似たもの」であって「愛」そのものではない。

「わが愛の飢えを満たして下さい」と神に祈ろう。満たされなければ、私はほかの人を愛せない。自分にないものを他者に与えることはできない。
by ecdysis | 2010-05-08 15:21 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

神のせいではない

 煮えたぎるような嫉妬と羨望と願望の対象だった、健康な恋愛関係や結婚について、きのう歩いていてふと気づいた。
 これまで、私は、健全な人間関係や生活を求めていながら、神がそういう縁を与えてくれない運命なのだと思いこんできた。
 けれども、それは神の定めたルートではなかった。神の意志ではなかった。

 私自身が、自分の自己評価の低さにふさわしい相手や環境を選んできただけの話であると。
 つまり、神のせいではない。私がそれを選んできただけのことなのだ。

 自分の将来に絶望した16歳の少年時代の心が、そういう選択しかできなくしていたのだ。

 あのときの絶望は、今も響き続けている。絶望の音楽を、いまも演奏し続けている。おのれが口ずさむ絶望の歌にあわせて。まだ絶望ステップを踊っているのだ。

 だが、もうそろそろ演奏をやめ、踊るのをやめようと思う。絶望の踊りをやめて、希望のダンスに切り替えないといけない。
 
 私は、16歳のあの日に、この世でこんな想いをしているのは、自分だけだと、本当に苦しくて哀しくてつらくて、生きているのがみじめすぎると思った。死にたかったが死ぬのがこわかったので、生き続けただけだった。自分の生い立ちや家庭環境そのものに、心底打ちのめされ、辱められたと感じた少年の私は、その恥辱をだれかに訴えることもできずに、希望のない、ただながらえるだけの人生に踏み出したのだ。

 早すぎた濁った絶望という諦念しか、あのときはなかった。
 だが、それがACという症状を持つ人間のひとりだとわかったことから、少しずつ変わりはじめている。
「自分だけ」の世界から「自分も」の世界にぬりかわったことは大きい。

 16歳のとき、私の青春は自殺した。そして意識不明の重態を続けてきた。
 目覚めれば、もう50歳になろうとしている。

 それでもいい。復活できると信じれば、もともと与えられていたもので、よみがえらないものはない。
 そう信じよう。
 

 
by ecdysis | 2010-05-03 11:15 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)