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 まだ、神をさほど意識していなかったころ、18歳のとき、石川達三の本を読んでいた。

 そのエッセイの中に、「人間には、信仰人種と非信仰人種がいる」という意味の文章があり、反射的に「自分は信仰人種だろう」と思った記憶があり、そのときの直観は以後の経過からして、正しいものだった。

 まじめな石川先生は、「自分は非信仰人種だ」とおっしゃっていたように記憶するが、少なくとも彼の「信仰」「非信仰」の人種分類の認識は正しいだろうと思う。

 もっというなら、この二つの人種の間の相互理解は、「理系と文系」、あるいは「依存症者と健常者」の間のコミュニケーションの難しさよりも困難なものがあるだろう。

 私の母と父の間もそうだったが、おそらくACの両親には、お互いに意志の疎通がうまくいかない「反対側の存在どうし」であることが多いのではないかという気がする。その分裂が、子供に悪い影響を与えることも多いはずだ。そこに、アルコール依存症や共依存がからめば、問題は致命的な様相を呈する。

 12ステップの自助グループに通って、ある程度時間が経過している人でも、頑固な無神論者がいたりする。そういう人の気持ちを、私は理解できないし、したいけれど多分無理だろうと思う。神が実在すると信じる前の自分に、すっかり戻ることが無理だからだ。

 しかし、自助グループに限っていえば、無神論者は消えてゆくか、あるいは嫌われ者や迷惑がられる人としてしか生き延びられないようだ。むろん、そういう人たちと論争するつもりはないし、裁くつもりも気持ちを変えさせようという気もない。

 おそらく、死後にも、無神論者の天国と、有神論者の天国があったりするのかもしれない。
 そのとき、無神論者の目に、有神論者の天国がどう見えるか、また逆からはどう見えるか、考えると興味深い。
 たぶん、有神論者からみた無神論者の天国は、地獄のように見えるにちがいない。私には、そのように感じられる。

 以前にも書いたが「この世は短く、あの世は永い」と信じる私にとって、この世界での生活は、魂の永遠の道程の一部にすぎないと思うことで慰めを得る。時間や空間の概念が意味を持たないほど広大で無限の生前・死後世界から、ちょっとだけはみでた寸刻にすぎないのではないかと思える。
by ecdysis | 2010-07-28 23:55 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

 どれほど「普通」に生きたいと願っても、実現しなかった。
 するわけがない、ということに気付くのに四半世紀もかかってしまった。
 それは、人並み以下という意味の「普通でない」という欠点も、人並み以上という意味での長所も、ともに自分が持っているところから、混乱と錯雑した印象とともに、かなり深刻な自己分裂を繰り返す原因になってきた。

 100%普通の人間はいない、そういう意味での「普通」は「ない」ということに、まず気付かなかった。
 多数派か少数派かという言い方の上で、「多数派=普通」といえる確率は高いが、それが「正しい」とは限らないことにも気付けなかった。100%正しいことが、人間関係の中であるというのも、ただの思い込みだった。欠点や短所、美点や長所をともに持っているのが人間で、完全に好ましい100%素晴らしい人間など、この世にいるわけはないのだ、ということにも気付かなかった。

 世間知らずで無知だったといえば、それまでだが、私のかつて信じていた「普通」は、テレビのホームドラマをモデルにしていた類のもので、ああいう家庭は絶無ではないだろうが、ごくごく限られたケースだということに、若いころは気付かなかった。母自身が、あまりにひどい家の状態の反動のせいか、「ホームドラマのような家庭がいい」と、実際にたびたび口にしていたのだから、親の妄想を真に受けた年月が長かった。

 ドラマはしょせん、ドラマだ。歌謡曲と同じようなもので、そんな歌詞通りの恋愛ストーリーが、そんじょそこらに転がっていはしない。

 きっと、人の生活の「真相」とは、グロテスクで汚いものと崇高で美しいものとの、奇怪な接合という風景が正しいのかもしれない。「普通」とは幻想、ひとつの「共同幻想」だろうと思う。互いに敵意や悪意がないことを証明しあい、「常識」という形式や儀礼をもって「私はここに所属しています。容認されて存在しています」と表明しあう「身分証明書」をもっている状態のことだろう。

 世の中、変わり者は山ほどいる、迷惑なのも素晴らしいのも、というのが、この年になっての感想。

普通とは、幻想だろうと思う。ホームドラマが虚構であるのと同じ程度に。
そうでなければ、アルコール依存症者80万人、予備軍440万人。また毎年の自殺者3万人超なんて現実にはならないはずだ。

「人並み」もまた同じ。学校や会社や地域社会で、「同じようにふるまわねばならない」ストレスは、ACにとっては非常につらいところがある。だが、ポーズだけでも、「同じ中にいる」と思えれば、疎外感は薄くなって生きやすくはなる。しかし、それも程度問題だ。

「普通」も「人並み」も、追求はほどほどにしないと、窮屈でたまらなくなる。「テキトー」でいい。
その「テキトー」が肌でわかるようになれば、もうそれで「普通」への接近は「よし」とした方がいいと、ACなりに私は考えるのだ。

 
by ecdysis | 2010-07-27 14:19 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)