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わが内なる少年にささぐ

 18歳の私よ、きみはひとりだった。

 苦しみを相談することも、シラフで涙と嘆きを吐き出すことも知らず、ひとりぼっちの世界で生きてきた。
 未来もなく、希望もなかった。死ぬことも生きることもできないでいた。
 家族は家族でなく、安全も安心も世話もなかった。逆に家族に安心と安全と世話を与えるために、いつも心は不安でおびえて恐ろしく、重苦しくて疲れていた。

 だれか助けてほしかった。何をすればいいのか、どこへ行けばいいいのか、だれか教えてほしかった。
 でも、何もできずに、ひたすら世界が恐ろしく、ひきこもり、苦しんでいた。

 だが、もうひとりではない。おなじアダルトチャイルドたちがいる。
 もう、ひとりではない。孤独なアダルトチャイルドが、手をつないでアダルトチルドレンという複数の中の一人になれたのだ。

「私は孤独なアダルトチャイルド」から「私たちは孤独なアダルトチルドレン」に変わったのだ。

 少年の私の主語は、いつも「オレ」「ボク」の単数形だった。
 決して「おれたち」「ぼくたち」ではなかった。

 少年よ、きみはアダルトチルドレンの大勢の中の一人になれたのだ。
 同じような人たちの中の一人にやっとなれたのだ。
 この世で最も不幸だった私が、この世で似たような不幸に苦しむ人たちの中の一人に。

「同じ境遇・同じ体験・同じ苦しみ」を共有できる存在を、少年時代の自分がどれほど求めていたか、今更のように自覚する。

 少年の私は、神を信じなかったし、神に導かれる人生があるなど思いもしなかった。
 目に見えない世界とその御意志に沿うように生きるという生き方があることも知らなかった。

 少年よ、きみはもう悩まなくてよい。
 もう決してひとりではない。


 
by ecdysis | 2011-10-21 03:35 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)

 家庭を持てない自分への、子供を持てない自分への、いうにいわれぬ劣等感が、その姿をあらわにした。

 私の少年時分からの気持の中では、人生で「結婚して家庭を持ち子供を育てること」は「至上至高の行為」になっていた。世間一般でも、古い考えに今ではなっているが、「結婚して初めて一人前」「子供を持って初めて一人前」という価値観を、金科玉条のように大切にしてきた。

 だから、それがどんなに不健康で不完全でひどい家庭でも、そこで結婚して子供を持っている人たちは、少なくとも自分よりは大人であり一人前であると、反射的に思いこむことをしてきた。

 その価値観がある限り、私はこれまでもそうだったように、自分がいつも半人前で、子供だと、家庭を持っている人たちの前で、内心どこか萎縮せざるをえない。自分が結婚するときまで、世間から決して一人前の社会人に見られることはなく、なにかにつけて自分を「社会の落ちこぼれ」「社会人劣等生」と卑下しなければならない。

 だが、その卑下や劣等感はもちろん、そもそもの「家庭至上主義」の価値観が、次第に私自身を呪縛して、心身ともに行動に制約をかけ、あやまった行為にすら導くようになってきた。

 だから、私は家庭と子供を持つことを「至上至善」とする価値観、私の「掟」を捨てる。
 自分で自分を害するほかない掟は手放す。それは、亡き母のものだったのだ。

 私は、これから家庭を持っている人たちに、人生の劣等生のような気持ちを抱きつつ、遠慮してものをいうことはやめる。半人前が一人前に口をきくような、自己卑下の心をもって相対するのをやめる。

 独身の私は、これから既婚者のひとたちと対等に話し、おこなうことにする。
by ecdysis | 2011-10-15 22:21 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

  昨日は、母の5回目の命日だった。前日から、仏前に供えるために、麺類の好きだった母のために、おそばをゆでて精進の煮物をつくっておき、朝にお供えして仕事に出かけた。

 母の姿は、私の人生の疑問の出発点であり、病的な生き方の大元であり、鬱の源でもあった。

 生前の母を想うとき、彼女の生活がいかに苦悩と不安と恐怖にまみれていたか、それを考えただけで、私の心は悲しみと痛みと苦しみとでいっぱいになる。わかっている、それは、子供が母を、あたかも親のように心配するAC特有の「愛の逆流」であることを。

 事実としての母の内面は、ちがっていたのかもしれないけれど、母の苦しみをもっとなんとかできなかったのかと考えてしまうと、どこから手をつけていいのかわからないほどの、深すぎる絶望と悲哀に包まれる。わかっている。私は息子として自分にできる限りのことはやった。あれ以上はできなかった。父のかわりとなってまでいろいろとやった。それはわかっている。

 命日の朝、夜明けに夢うつつの中で、私は自分の心が目に見えない広大無辺な悲哀の海のただなかとつながってしまったと感じた。それは救いのない、出口のない悲しみ。この海こそ、私の共依存やアディクションへと突き動かすものであり、カルトや対人依存へと追い込んだ原因の「孤独感」の源だ。

 この海に「凍結地獄」と名付けてもよい。 なんという無限の悲しみの凍りついた暗黒の海だろうか。
 この海に接触し続ければ、だれもがうつ病になり、だれもが耐えきれずに自殺するだろう。
 母の命日の朝、私はそこにいた。その海は底なしの大洋で、しかも海面から何千メートルの底まで、ぜんぶが凍結している生命のない死の海なのだ。
 私は全裸でそこにいた。その凍結した大洋の海中に、息ひとつできずに極寒に凍結したまま、何百気圧の深海のただなかに何万トンもの氷の圧力に封じ込められていた。私の孤独感は、まともに見つめたらそんな状態なのだ。

 私のこの救済不可能な孤独と悲哀と絶望の海は、これをまるごとなくすことはできないと感じた。それは、私のものであると同時に、無数の人々の同じ苦悩を共有している海だと感じたからだ。これはもしかすると過去の無数の人々の絶望と悲哀と苦悩と嘆きの涙によって生まれた残留意識の海かもしれない。意識の世界では、それは暗黒のネガティブな感情の海の場として実在しているとしか思えなかった。

 恐怖は感じなかった。ただ、痛ましく、ただ悲しく、ただやりきれない永遠の嘆きだけが私の中に流れ込んでくる。冷たく悲しく暗く痛い絶望の無限の凍った海だけがまわりにある。

 ただ、いつまでも、そこにいれば、私もおかしくなるとわかった。
 できることは、神に祈って、この海との意識の連結を断つことだ。
 私は祝詞を心の中で黙唱し、おそらく多くの人々がとりこまれてしまったであろう、この地獄の海から離れた。

 亡き母の霊が、そこにいないことを祈った。日夜、先祖の人々とともに冥福を祈り続けている。だが、自分の意識が目に見えないネガティブな世界とのリンクによって悪影響を受けているなら、それは祈りによったり、音楽を聞いたりする気分転換によって「切り替える」しかない。

 生まれて初めての目に見えない悲哀の底なしの海を経験した。「救われる」とは、この凍結地獄との連結を断って、別の次元に意識を移すことだろうと思う。
 これもまた、私にとって非常に大きな意味のある「おぼしめし」であろうと思う。


 
by ecdysis | 2011-10-13 02:17 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)

三十年錯誤

 私が、18歳のときに一番ほしいと思ったものは幻想だった。
 少なくとも、この世には存在せず、だれもそれを経験していないものだった。

 それなのに、少年の私は、それがこの世に存在し、しかも結婚しているだれもが日常的に体験し、ほとんどの世帯に普遍的な事柄であるにちがいないと信じた。だれもが、それを持っているのだから、自分ももって当たり前だと信じた。

 私が、有ると信じた事柄は、「完璧な家庭」すなわち「問題がひとつもない家族関係」だった。

 18歳の私には、家庭というものは、そうでなくてはならないものだった。育った家庭が、あまりにも不健全で病的で悲痛な問題だらけだったので、その反動として完璧な家庭を夢想し、それを手に入れようと心底から欲し念じたのだ。

 自分が結婚したら、良い夫、良い父親になって、水ももらさぬ健全で穏やかな家庭をつくるのだと、心に誓った。それが心の支えになり、苦しいときも、将来、味わうであろう幸福を夢想することで、使命感をもって自分をかきたてた。家庭を天国にしなければならないと思っていた。

 本当に、18歳のときから、その夢想だけが私の弱く臆病で傷つきやすい心を支えてくれた。それがあるからこそ、苦しくても自棄にならずに、「いつかきっと実現するのだ」と自己を保つことができた。それゆえ、うつ病にもならずに済んでいたし、アルコール依存も進行が遅れていた。

 だが、15年ほど前、あることで「自分は結婚できない」という可能性の高さを見ざるをえなくなってから、私は急速にアルコール依存が進み、合わせて今から思えばうつ病の緩慢な発症と進行がはじまった。信じたくないことだったし、絶対に受け入れられなかった。しかし、事実は「夢想の否定」を告げ続けた。

 私は、力強い希望を与えてくれる「完璧な家庭の夢想」に、次第に支えを求めることができなくなっていった。心をむしばむ悲嘆と失望、喪失の苦悩に、日々、生気を削り取られ、生きがいのありかがもろくも崩れていったのだ。

 支えをなくせば、そこに残るのは傷ついたアダルトチャイルドの心だけだ。
 そして、18歳の私が「理想の家庭の夢想」をつむぐことで、いったい何を本当に欲していたのか、最近、やっとわかった。

「自分の居場所」が欲しかったのだ。安全で穏やかで温かい「居場所」が欲しかった。生家に安心できる居場所がなかったから、自分でそれをつくろうとしたのだ。
どれほど、「安心で安全で穏やかな温かい場所」を欲してきたことだろう。
いつか、そんな居場所ができるに違いないと夢想する以外、当時の私にどんな生き残るすべがあっただろうか。それ以外にはなかったのだ。

 そんな私は、今夜も神につぶやく。

「神様、私の支えだった夢想はこわれました。どうか、あの夢想に替って、私を支えてくれるものをお与えください。それがなんであるか、どうかお示しください」

 無いものを無いとは知らずに有ると信じ、しかも万人が持っていると思い込み、それぐらいなら自分でもつくれるだろうと心から欲して念じた少年の絶望の涙は、いまだ乾いてはいない。
by ecdysis | 2011-10-11 02:48 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

昨日、日曜の朝に夢を見た。

紙でできた表の上に、ゴシックの活字で印刷された文字の列があり、それはこう読めた。

「自他の理想の人間像の滅却」

「滅却」とは「滅ぼし捨てること」すなわち「すっかりなくしてしまえ」ということだ。

夢で文字化した私の潜在意識がもとめるのは、自分にも他人にも「理想」を求めないことを徹底せよということのようだ。すなわち「完成された人格」「これ以上修行する必要のない完璧な霊性」を、自分にも他人にも「いつかそうなるべきもの」として求め、想定することを、すっかりやめてしまえということだ.

夢から覚めて、頭の中をぐるぐるめぐる言葉があり、脳裏をインスピレーションが走り抜け、それを忘れないように枕元に用意したメモにつづった。

「人格や個性に完成というものはない」「成長とは完全になることではない」「成長は変化にすぎない」「気にする変化は、有益な変化と有害な変化のふたつだけ」「変化は次の変化を促す」「未完成の人格というものは存在しない」

私の「完成された人格」という「理想」は、幻影であり実在しない虚像だと、夢の言葉が教えてくれている。
虚像をもとに、自他を裁いて優劣や高低や善悪を決めつけては、いつまでたっても楽にならない。

そして、夢のあとのインスピレーションは、「それでは私はどこを、何をめざせばいいのか」という疑問に、すぐに答えはやってきた。

「神の意志に、おのれを合わせること」

その「おのれ」は、完全な人格でも成熟した性格でも成長した自己でもない。欠点をもったままの、あるがままの自分でいながら、神に自分を合わせようとし続けること。神に自分を合わせる上で、不都合なことがあれば、それをなくしていくことだけが必要なのだと。

自分の力で、自分の人生を完成させ、完全ならしめることは虚像の理想にすぎない。
完成しなくてよい、完全を求めなくてよい。
すでに完全である神の意識に、自分を合わせることができればよい。
成長したかどうか、より次元が高い人格になったかは、自分で判断する必要はない。

私という個性は変わらない。個性には善悪も完成未完成も成長も関係ない。
自分を一個の個性とみなせば、あるのは変化だけであり、あとは笑ってしまうほどの存在の小ささだ。

このような小さい変わりやすいめまぐるしいものが、「完成」をめざすなど、おこがましいにもほどがあるというものだ。
by ecdysis | 2011-10-03 02:37 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)