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謙虚・謙遜にはまだ遠い

 このところ、イライラすることが多く、同時に自分の限界を痛切に感じざるをえないことがあった。

 それによって、私はひとつの自分の偏狭な思い込みと尊大さを認めざるをえない。

 たとえば、私が信じている規範や信じ方などを、「いちばん正しい」と思っている自分がいる。
それは「自分にとっていちばん正しい」ということではない。「ほかのだれよりも正しい」と思っているのだ。

 だから、私が熱心に研究していることについても、「自分こそ、いちばんこれを理解している。ほかの人は、それ以下である」と思いあがり、自分と同じくらい、あるいは自分以上にわかっていそうな人を見ると、悔しくなって否定したくなるのだ。それを、妬みやそねみといってもよい。

「自分こそ、これをよくわかっている。ほかの人は、わかっていても自分以下」
 これは「なにがなんでも自分がいちばん」という、幼い子供の思考だ。

 冷静に大人の感覚で考えれば、どの分野にせよ、私が「最高の第一人者」であるという証拠はない。
だれも、「あなたは確かに、そのことについては一番で、だれもかなわない」と証明する人はいない。
 つまり、「われこそはもっとも正しい」という思い込みは、証拠も根拠もない、あるいは乏しい類の「自分が一番」という自己主張なのだ。
 これは「独善」「自己絶対化」と言い換えられる。

 ひるがえって、神様なら、私の「自分こそ一番正しい」という主張にどうお答えになるか、想像してみた。
 きっと、こうお答えになるだろう。

「おまえは正しい。しかし、見よ。おまえと同じくらい正しい者や、おまえ以上に正しい者たちは、こんなにいる」

「おまえは、それをよく理解している。しかし、見よ。おまえと同じくらい理解している者や、おまえ以上に理解している者たちはこんなにいる」

「おまえの方法はすぐれている。しかし、見よ、おまえと同じくらいすぐれた方法を行っている者や、おまえ以上にすぐれた方法を用いている者たちはこんなにいる」

 そう、私の幼稚な思い上がりよりも、神様がお答えになるであろう言葉の方が正しい。
 そちらの方が現実だ。
「自分が一番」ということは、本当はありえないのだ。
 たとえ「金メダル」をとったとしても、過去・現在・未来において永久に金メダルに値するわけではない。
 特定の時代、特定の環境、特定の機会など、特定の条件下でのみ「一番」であることが証明されたということにすぎない。

「われこそはもっとも正しいと主張するな」と私は自分にいう。
その主張には、なんの根拠も証拠もない。
それが事実なのである。

謙虚・謙遜の実践には、まだまだ遠い道のりを歩かねばならないようだ。
by ecdysis | 2012-08-24 02:23 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

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