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 これは、最近、年上や同年配の人たちにより感じるのだが、「この年になって、こんなことも知らないのか」とか「こんなに幼いとは」と驚くことがあって、以前なら怒って「こんバカタレ!」と心中で罵ったりしていたのだが、このごろ少し変わってきた。

 それは、相手の過去に、その欠点や問題点を直す機会がなかったか、あるいは教えられることがなかったということへの憐憫の情がわく。
 ふつうの人なら、人生のどこかで、常識を身につけ、他者に配慮し、幼稚さや周囲から浮くような自己愛や自己顕示欲を出さないようにするすべを学ぶ。それが「協調性」「社会性」と呼ばれる態度になる。

 ところが、年をとっても問題行動を繰り返したり、より深刻に迷惑さが増す人たちというのは、彼らの過去にそれらを修正する機会がなかったか、あるいは学ぶことをしなかったということが推測できる。
 さらにいえば、ふつうの人なら雰囲気から機敏に察知してみずから習得できることも、彼らにはできなかったと考えるなら、彼らにはそういう能力がなかったか育たなかったということになる。
 いずれにせよ、まともな過去ではなかったということになり、その生い立ちや経歴にあわれむべきものがあるということになる。

 そういう人たちは、自分では良いことをやっているつもりでも、幼稚な自己愛が強く、協調性に関する空気を読む能力が低いため、どんなに一生懸命やっても尊敬されることがない。せっかく有益なことをしても、むしろ、嫌われたり、嫌がられたりする。横柄さや高慢さ、独善や自分勝手が治らない人たちだ。
 もっとも気の毒なのは、彼らは年下の人たちから、年齢相応、経験相応の評価を与えられることがなく、こころからの敬意を払われることも決してないということだ。

 それは、とてもかわいそうなことだと思う。年をとってから、それ相応の敬意や優しさや、うわべや形式ではない配慮を、まわりの人からもらえないというのは、ものすごくさびしいことだろう。
 ふつうの人には、当然の常識や良識であることを、どうして彼らが短くはない過去に習得できなかったのか、私にはわからない。これはACであるとかないとかの範囲で説明できるものでもない。

「あんな年よりにはなりたくない」と年下の人たちから言われるような年長者には決してなりたくない。

 年齢相応、経験相応、というのがどんなに大事か、思い知らされる。

 
 
by ecdysis | 2013-01-31 03:25 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

 いまから30年前に、新約聖書のキリストやパウロの言葉に、「愛」という感情が人間にはあって、どうやらそれなしでは人間は生きてはいけないらしいと知った。また、その感情が人間の幸福にきわめて重大不可欠の要素であることも知った。

 しかし、「愛」の存在についての知識は得ても、私はそれを実感したことがなかった。
 愛することも、愛されることも、いとおしむことも、知らなかった。 
 とても大事なことだというのはわかるのに、それを実感できない自分が、たまらなくもどかしかった。

 当時の私が認識できたのは、自分が愛することをしてこなかったということと、愛されていることにもまったく気づかないできたということだった。
 おおいなる存在に生かされているということは感じられたから、「愛される」ことについては少しだけでも実感できて心があたたかくなった。

 だが、「愛する」ことを実感するのはきわめて困難だった。愛といえば恋愛しか知らず、しかもそれは幻想や女性依存に傾いたものだったから、とうてい健康な感情とはいえなかった。愛とは快楽なのだという解釈しかなかった。

「愛する」ことは、私にとっては感覚のまったく麻痺した手で、何かあたたかいものをつかむのに似ていた。目でみて何かをつかんでさわっているのがわかるのに、手には何も感じられないのと同じだった。あるいは、とても栄養のあるおいしい食べ物を口に入れたのに、嗅覚も味覚も麻痺しているので、ものを口にいれて噛んでいながらまったくおいしさも食べ物らしさも感じられずにいるのと似ていた。

 どんなに善行をしても愛がなければ意味がないということを、パウロは書いたが、その肝心の「愛」がわからなかった。「ローマ人への手紙」に愛の諸条件が書いてあるが、それを実行すればわかるだろうかと試みたが、数年苦しみぬいて、結局わからずじまいだった。

 この年になって、やっと少しだけ「愛」の一部が表現できるかなと思えるようになってきた。

 それは、
 「愛」は見返りを求めず「無償」でなければならないということ。
 「愛」は目に見えないものだということ。
 「愛」は正直さや思いやりや優しさや平和を好む心であること。
 「愛」は自他の善のために忍耐する心であること。
 「愛」はそれを実感したいという人には、努力の果てに、ある日、差出人不明の手紙が送られてきて、開封したら途方もなく貴重な宝石が入っていて「あなたのものです」というメッセージを見出すようなもの。

 そして、何よりも「愛を求めている自分」を自覚することが、「愛」のはじまりであるということ。
「愛されたい」と願う自分を受け入れること。「愛に飢えている自分」を認めること。
 神様に「私を愛してください」と祈ること。素直に求めれば、必ず与えられる。
「私のようなものが愛される資格があるだろうか」と思わないように。
 愛される資格のないものは存在することはできないのだから。
 ここに私やあなたが存在していること自体が「愛されている」証拠なのだから。
by ecdysis | 2013-01-21 01:13 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

 長い間、30年以上も描いてきた希望や生き甲斐がなくなったとしても、私は、その無くなったという事実からはじめようと思う。

 失くしたものの代わりになるものを求めようともしたが、それは無益な努力であった。

 そもそも、若いころに生き甲斐にするほどのかけがえのない希望に代わるような、大事な目標が簡単にみつかるはずもない。

 経緯や理由や原因はいまさら問わない。
 
 ただ、自分が人生で最も大事な希望も生き甲斐も、とっくに失くしていたのだと気づいたからには、結論はひとつだ。

 この「生き甲斐なし」という事実から、今後の人生をはじめること。

「生き甲斐」なくしては生きてこられなかった生き方から、「生き甲斐なし」で生きていくこと。

 最大の生き甲斐や希望や楽しみを失っても、生きていけるのだと、日々、確かめ続けること。
by ecdysis | 2013-01-07 03:01 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(5)

恐れと祈り

 どうか、私の人生が、
 私自身にとって無意味なものとなりませんように。
 私と関わる人々にとって無意味なものとなりませんように。
 私の住む国にとって無意味なものとなりませんように。
 私のいるこの世界にとって無意味なものとなりませんように。

 私という個が、世界という全体にとって、
 ごくごくささやかでも意味のある生き方ができますように。
 神々にとって
 ほんのわずかでも顧みていただけるような生き方ができますように。
 神々の御意志に叶う生き方ができますように。

 私の嘆きのもとになるできごとでも、
 私という個にとって
 それは神々が必要なことだと御判断されたことです。
 私とかかわる全体にとって
 必要なことだとご判断されたことです。

 私個人は悲しみと寂しさを覚える身の上でも、
 それが私にとって
 関わる人々にとって
 私をふくむ全体にとって必要なことならば、
 私は敢えて、もはや、その嘆きをなんとかしようとはしません。

 宿命は変えられません。
 それを受け入れたいと願います。
 今嘆いていることを
 いつか笑顔でいさぎよく受け入れられますように。
by ecdysis | 2013-01-04 03:47 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)