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1.神さまは、家庭の団欒を知らない私も、団欒を知って育った人も、差別はされない。
 結婚できない私も、結婚して家庭を営む人も、差別はされない。
 ACである私も、ACでない健康な人たちも、差別はされない。

2.私は、恋愛や結婚に、過度な期待を寄せてきたのだと思う。
 恋愛や結婚や家族の愛が、心の病や生きづらさや病的な生い立ちの傷に対する「特効薬」になると信じてきた。
 だが、それはまちがいだと気付いた。
 恋愛も結婚も、病んだ心の特効薬にはならず、狂った人間を治す薬にはならない
 恋愛にも結婚にも、精神を病んだものの狂った心を治す力はない。
 もし、治す力があるならば、アルコールや薬物やさまざまな依存症になった人を、その恋人や家族たちが治せていたはずではないか。
 だが、現実には依存症者を治せるのは、本人と神様だけだ。
 私は男女の愛と家族愛こそが、狂った心、荒れる精神を癒して救う信じたのだ。
 だが、そうではなかった。恋愛も家庭も狂った心を治すことはできない。
 つまり、私は、依存症者をかかえたほとんどの家族が必ずといっていいほど抱く「愛の幻想」を持ち続けてきたということだ。
 狂った心に、愛は届かない。できるのは、その狂った心に、どうか神やまわりの人々の愛がいつか、できれば早く届きますようにと、祈ることだけだ。

3.健康な配偶者を持った病的な人は、自分が病的であることを認め、回復しないかぎり相手をも病的にしてしまう。
 あるいは、同じ病的な相手に惹かれていっしょになり、さらに病を悪化させてしまう。
 ところが、私はそんな深刻な事実がたくさんあるのも知らず、健康な心の持ち主が、病的な心を持った人間と一緒になって、その健康さで自然に病的な心を癒してくれるだろうことを期待したのだ。
 しかし、これまでの経験と実際にあったほかの人たちのケースを見る限り、本人の自覚もなしに、健康な配偶者や家族の健康さそのものだけが、本人を救って癒したという事実を私は知らない。
病的な自分という自覚と回復への意志がない限り、病的な心の持ち主と健康な心の持ち主の関係性は、次のようにいえるだろう。
 病的な心は、健康な心の持ち主にも伝染するが、健康な心は病的な精神に対して感化を及ぼさない。
ひとことでいえば、「病気はうつるが、健康さはうつらない」のだ。
 病的な心の持ち主と健康な心の持ち主が、いっしょになった場合、自覚も回復への意志もない状態が続く限り、影響力において主導権を持つのは常に病的な側である。

 自分の病的な側面に自覚的であることと、回復のための努力を惜しまないことが、本当に大事なのだ。
 もし、私の祖父母や父たちにそれができていたなら、私もここまでひどいACにはならなかっただろう。
by ecdysis | 2013-03-25 01:28 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)

 理不尽なことにがまんがならず、感情を激発させてしまうことがよくある。

 とくにエゴが強くて、人はどうでも自分さえよければという言動があらわな人や、幼稚だが深刻な自己顕示欲が強い人など見ると、よせばいいのに怒って意見したり制止しようとする。

 そのくせ、意見したりとどめる行動に出ると、あとで相手からどんな反撃があるだろうかと、くよくよおびえたりもする。まちがったことをしていないのに、心にきざすおびえはなんだろうかと思っていたが、どうやら、人格障害者だった祖母への幼児期の恐怖が原因らしいとわかってきた。

 祖母は恐怖の存在だった。母を虐待し、苦しめ、私をも脅かし、幼児の私に「自分が祖母に逆らえば母がひどい目にあわされる」という二重の恐怖で呪縛した張本人だ。いってみれば、私から健康な生い立ちを奪った大本は、直接的には祖母である。

 もちろん、祖母が深刻な精神の病に冒されていたとは知らなかったから、なおさら恐怖は深かった。

 正しいことは正しいし、まちがっていることはまちがっている。
 ある一人の言動が、より多くの人々に迷惑をかけて困らせているときは、だれかが指摘しなければならない。

 問題は、その「一人」に対し、私が怒りを感じ、のちにはおびえるというアンビバレンツな感情劇を演じてしまうということだ。

 そして、それはセオリー通り「恐怖が怒りにかわって現れる」という転換が起こっているのだと感じる。

 私が、口出ししたくなるほど怒りを覚える相手は、たいてい心を病んでいてエゴの制御ができなくなっている幼児性の強い相手だ。むろん、相手を変えようとは思わないようにはしているが、慎重に自分のエゴをもチェックしながら、もの申すことになる。むろん、怒って伝えるので、穏当さを欠いた表現をしがちで、これだけはどれだけチェックしてもチェックしきれない。

 ふつうの健康な人なら、無視するか冷ややかにその場かぎりの応対をするだけの相手かもしれない。
 しかし、人格異常を起こした祖母から、私は逃れられなかったのだ。そのときの恐怖が原因となって、自分が正しい行動をしたのに、あとから不安やおびえが起こる。それは、同時に祖母に似た人格異常を起こしている人への抑えられない怒りとなって発現する。

 だが、私は今日おもった。「彼らは病んでいる。病的な生き方や感情生活を自覚できずに、あるいは知っていても制御できずに苦しんで生きている人たちなのだ。怒りではない別の感情をもって接することができないものだろうか」と。

 祖母を許したように、彼らを許せるかどうかは、まだわからない。
 しかし、怒りと恐怖・不安・おびえの連鎖を断ち切りたいと願っている。
by ecdysis | 2013-03-14 10:52 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)

 今日、ふと思った。

 ふつうになりたい、健康な心を持ちたいと思っている私のようなAC・依存症者は、数学でいったら「漸近線」みたいなものだと。

 ふつうの健康な人たちの生き方を、ある基準となる直線上にあるとみなすと、私たちはどこまでいっても、その線には重ならない「漸近線※」の状態で生きていくしかないと。

  だから、直線に限りなく近づいていくことはできるけれども、本人も「漸近線」であることを忘れるほどすれすれ近くまで行けるけれども、やはり軸に接したり重なることはできない。

 そういう生き方なんじゃないだろうかと、なんとなく想い、なんとなく、それが正しいのではないかと感じた。


※漸近線=ある曲線が、原点から無限に遠ざかるにつれて、限りなく近づいてはいくが、決して交わらないし、接しもしない直線。
by ecdysis | 2013-03-13 04:24 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)

 昨夜、寝床にもぐりこんで少しして、私の心に降りてきたことどもを記したい。

 それは、「人間は、苦しみや不如意の多い、この不完全な世界になぜ生まれてくるのか」という問いへの答えになっていた。霊的・精神的な意味において、人がこの世に生まれる理由が、次のようにふつふつと思い浮かんだ。

「この世は、

愚者が賢者になるための場所。
(無知で愚かな者が経験ある賢い者となるための場所)

無道な者が有徳な者になるための場所。

幼い者が大人になるための場所。

初心者がベテランになるための場所。

卑しい者が尊い者になるための場所。

劣った者が優れた者になるための場所。

弱い者が強い者になるための場所。

欠けた者が満たされた者となるための場所。

知らない者が知る者になるための場所。

悪者が善人になるための場所。

暗い者が明るい者になるための場所。

闇が光に変わるための場所。

有害な者が有益な者になるための場所」

そして、大事なのは、上記はあくまでも、自分が「なる」「変わる」という表現だということ。

決して「変える」「ならせる」という表現ではなく、それぞれの人間の自発性においてのみ「変わる」「なる」という言い方だ。

それぞれの人間が、「なる」「変わる」ために、この世の生を享けているのだという感覚だった。

だから、人を変えようとしたり、自分が思った通りになるように意図することは本筋ではないことになる。

それぞれが、それぞれの自己責任のうちに、よりよい方へ「変わり」「なる」ことが期待されているのだと思えてならなかった。
by ecdysis | 2013-03-10 23:25 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

 かつて、私は言葉にならないうちに、恋愛などについて、こう思っていた。
 「愛」は「独占」であり、「互いに独占し支配しあう」のが「熱い恋愛」なのだと。
 その考えは、私の強烈な嫉妬心のもたらすものだとわかったのは、ここ数年のことだ。

 「相手を独占し支配したがる」のは、幼児の意識であり、大人がやることでは、本来、ない。
 だが、若い頃から、嫉妬深さとともに慎重に否認してきた私のネガティブな感情は、やはり「相手の支配と独占」だった。

 それらが、「母からの愛」への飢えに起因するのはわかっている。
 しかし、中年になるまで、相手が多くの人間関係の上にある存在で、あるいは関わりの中の一部であることを、まじめに思い返したことがあっただろうか。

 どうしてACの私は、「私に必要なのは、ただひとりの愛すべき人」などと思いこんだのだろうか。
 どうして「私をだれよりも愛してくれる、ただひとりの人」を求めたのだろうか。
 答えはわかっている。その幻想は「だたひとりの人」を「ただひとりの母」と置き換えれば、即座に素性が知れる。

 だが、人は本当に、ひとりでは生きられない。私も家族も友人たちも、もちろん母や親戚たちも。

 人が生きていく上には、多くの人々とのかかわりが必要であり、たとえひきこもっている人間でも、その衣食住を生産・運搬・販売・供給している人々がいなければ生きてはゆけない。
 同じように、一人の人間のこころは、別の一人の人間の言葉や行いによってのみ支えられるものではないのだと、最近、あらためて思う。

 自分に影響を与えた複数の人々に、序列をつけることはできるが、「この人だけが私の生き方を決定的に変えた」というのは、たぶん思い込みだろう。
 多くの人からの、それぞれ別々の印象に残る言葉や声や行動に触れて、それを糧にして私たちの心は人間らしさを保つ。媒体が直接の対面か、電話やネット、本や雑誌やラジオ・テレビであろうが、それらのたくさんの情報から自分が受け取ったイメージの集積によって、私たちの人間性は保たれる。

 そして、それぞれの自分にとって必要な、刺激としての体験の一部を、日々、心に摂取して吸収して生きている。だから、私も毎日、食事をするように、さまざまな印象や感情や情報を、人や物や事から摂取し続けている。

 一人の人からだけ、すべてを摂取することは不可能だ。その意味で、信者を洗脳して教祖のことだけ考えさせるようにしむけるカルト教団の教祖たちの罪は著しく深い。極端に不健康な有害な食物を売って食べさせるのが犯罪であるように、心に不健康な偏りきった印象や情報を与えるのも犯罪といえる。

 だから、私の心は、あなたの発したひとことや、態度や行動を、自分を支える大事なひとつの食べ物としていただくし、あなたもまた、必要なときには私の発した言葉や態度や行動を、心で食べてほしいと思う。
 多くの人々とともに、その間で、よいものを食べたり、食べさせたりして、私たちの心は育ってゆく。

 私の心が、多くの人たちの過去現在の言動から受けたイメージから成り立つように、私とかかわる人たちの心にとっても、私の言動がそのイメージの一部になっているはずだと思う。

 もし、私の心を一本の樹木にたとえるならば、それらのイメージのひとつひとつは、みっしりと茂った葉の一枚一枚なのだ。だから、あなたのことが私の心の木の葉の一枚になっているならば、あなたの心の木にとっても、私のことが葉っぱの一枚であってもらえれば、それはとても喜ばしい感謝すべきことだと思える。
by ecdysis | 2013-03-10 00:09 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)

 おそらく、私自身や家族や親戚・世間が私に望んできた「理想の自分」と、神様が私に望んでくださった「理想の姿」は、大きくかけ離れているのだ。
 それゆえに、そのギャップのために苦しんできたのだろう。

 家族や世間を完全に満足させて「非の打ちどころがない」と評価されるような自分こそ、自我と世間の、いわば「人意」の理想とするところだ。

 しかし、神の理想とする人間像は大きく異なるようだ。

 第一、非の打ちどころがない自分というのが、神のご意志にとってどれほど意味があるだろうか。
 たとえば、私たちにとって「非の打ちどころのないアリ」や「非の打ちどころのないアメーバ」など、専門家以外、だれの称賛に値するだろうか。

 幼稚園の先生にとって、「非の打ちどころのない園児」とは、どういう存在であろうか?

 人はどんな場合でも「ある側面において完璧」であることはできても、「すべてにおいて完璧」ではありえず、また神様もそれを望んでなどいらっしゃらないように思える。

 だから、私はこう祈る。

 神様、どうか私や家族や世間が望んだような自分ではなく、
 神様がお望みになっている自分になれますように。
 私や人が思う理想を果たそうとするのではなく、
 神が思う理想を果たすよう、お導きください。

 人の目にかなう私ではなく、
 神の目にかなう私になりますように。
 人の欲望にこたえる私ではなく
 神のご意志にこたえる私になりますように。

 人々が欲する理想の姿にではなく、
 神が、私にとってもっともふさわしいと思われる姿に、
 どうか導いてください。

 私が自分に対して最も良いと思う道ではなく
 神が私に対して最も良いと思われる道を
 どうか歩ませてください。
by ecdysis | 2013-03-07 09:57 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)