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大学3年の末、霊言や輪廻転生の証明と、過去世透視を売り物にする団体に入信した。
 今なら明白にカルトとわかるが、四半世紀前の若者だった私には、そういうものを見分ける力もなく、手もなく信じ込んでしまった。

 そこの教祖が、自分は釈迦の生まれ変わりだと主張していたので、既存の仏教に興味をもった。その教祖とは無関係な般若心経のまともな解説書を読んだりした。
 その中に仏教用語として「莫妄想(まくもうぞう)」というのがあった。意味は「妄想するなかれ」。
 しかし、そのカルトと知らずに入信した団体の教義の主要部分が、今にして思えば過去世や霊魂の輪廻に関する妄想の作り話だった。「妄想するなかれ」の意味が、当時はわかったつもりでいながら、実際は言葉しかわからなかったのだ。

 当時、そのカルト団体の中で知り合った年下の女子大生に恋をした。
 彼女は、教祖を尊敬するあまり、自分も素晴らしい過去世を持っているのだと、あるとき私に打ち明けた。私も当時は、盲信とは知らずに教祖とその教義を信じ込んでいたので、彼女の言葉を信じた。その時点で、もう正常な判断力がなかったのだが、当時はとにかく世界で一番素晴らしい真理の場所に集えたと信じ込んでいた。批判したり疑ったりなど、ありえないことだった。

 彼女のことを批判するのが目的ではないし、私も相当に巻き込まれて彼女の妄想を助長させてしまった罪があるので、妄想の内容は詳しくは書かない。しかし、古代帝国の女王はじめ歴史上の著名な偉人たちを、自分の前世と信じこんだと書けば、おおよそ想像してもらえると思う。
 さらに、そういう彼女と宿縁があるので、私も彼女の友人にふさわしい、素晴らしい過去世を透視してもらい、史上の著名人の名前を割り振られて喜んでいた。まったく、今となっては恥ずかしい、狂ったおめでたい話である。

 それも、彼女に恋をしたからだ。私は彼女に愛されたかった。
 異性からの愛に飢えた孤独な貧しい青年が、年頃のかわいい女性に出会って夢中になるのは当然のことだ。ただ、出会った場所と状況が悪かった。

 その後、いろいろとひどい経過をたどり、私と彼女の関わりは、のっぴきならない複雑怪奇な様相を呈した。そして、数年後にはすべてが誇大妄想病とわかった。心の支えだった偉大な前世の信念は、ただの前世妄想と判明し、私も彼女も、妄想の天国より墜ちた。ただの現実に生きる人間たちに戻るしかないはずだった。

 信じたすべてが誇大妄想とわかったとき、彼女も私も、その教団を離れた。これで、晴れて妄想のない現実的な恋が始まると、私は喜んだ。
 しかし、彼女は別のカルト教団に入り、私はカルト的なものそのものから脱却する道を選んだ。

 あの時、なんとか、彼女をカルト路線から、自分の方へひきもどそうとしたが、かなわないことだった。
 今度こそ、現実的な愛に生きられると思ったのに、彼女は私の腕の中からほかの教祖へと移っていったのだ。無念だった。本当になんとかしたかった。
 彼女を引き留められなかったことは、長く私の悔いとなった。これまで折に触れて心を刺す記憶だった。つらく悲しくやるせない痛憤をともなう思い出だ。

 信じた教祖に裏切られ、愛する女性も失った私は、そこから急速にアルコール依存と鬱病への道を深刻化させていくことになった。
 なぜあのとき、私と彼女は別れざるを得なかったのか。忘れては痛ましく思い返す四半世紀、悲憤をともなうその問いばかり。本当は一緒になれたはずなのに、私に力があれば、金があれば、彼女の両親に拒絶さえされなければ・・・と、取り返しがきかないとわかっていながら、とめどない「もしも」の嘆きの連続だった。

 だが、最近、私は気づいた。
 私と彼女は、ああいう別れ方以外にはありえなかったのだと。
 なんということか。私は、後悔と嘆きと執着に目がくらんでいたらしい。
 私と彼女が、ともにつむいだ過去世妄想という「妄想」の重大な役割を見落としていたのだ。

 互いの「素晴らしい過去世」という誇大妄想があってこそ、初めて成立した関係性だったのだ。
 恋愛関係が成就しようとしまいと、大前提である「妄想」がなくなれば、それらは崩壊せざるをえなかったのだ。
 甘美な「妄想」が互いにさめれば、そこには苦い「現実」が横たわる。別れは必然だった。
 ああなる以外には、ありえなかった。

「莫妄想=妄想するなかれ」
 若き日に知ったこの言葉の重みは、どれほど強調しても、しすぎることはない。
 私を見守る大いなる意志よ、わが愚かしきふるまいを許したまえ。
by ecdysis | 2013-10-19 02:05 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

わが愛した女性たちへ

まだ青年だった頃から、激しく愛しもし依存もした女性たちに、これまでの切ない悲痛な思い出ばかりを未練がましく嘆く以外のことをしよう。

 思えば、私の人生の転換点には、常に彼女たちがいた。彼女たちは、そのときどきの年代の私にとっての道標であったことに、いま気づく。それなのに、私は、彼女たちひとりひとりに、それぞれ「ともに人生を歩む人をみつける道のゴール」だと期待した。

 しかし、それらはすべて通り過ぎるものだった。交差する軌道を走る二つの星が短い瞬間だけ出会って、また離れて行くようなものであった。だれも私のもとにはとどまらず、私もとどめる力を持たなかった。悲痛さと切なさだけが心に刻まれて、こと恋愛に関しては私の心は陰影に富みすぎている。
 何より、彼女たちは全員、心を病んだり重度のACだったりして、安定して男女関係を維持できる状態ではなかった。そういう彼女たちを何とかしたかったのだが、若かった私は、自分も彼女たちと同じように病んだ者である自覚がないに等しかった。

 私は、彼女たちと出会って生き方を変え、新しいステージにいつも押し出された。
 その変化自体が、実は彼女たちと私との別離を決定づけるものだったことに長く気づくことさえなかった。ただ、そういう変化に導いてくれたことに恩義を感じ、これから恩返しができるというときに、別離が訪れて、もはや彼女たちと関わることができなくなるということを繰り返した。

 その意味で、私はいつも後戻りできないようになっていたのだと思う。

 彼女たちが、いまどうであるかわからない。会えないし連絡もとれない。

 ただ、こんな年になっても、まだ青年の恋の痛手をひきずっている自分が情けなく、みっともないと感じるばかりだ。

 少なくとも、今わかるのは、私も彼女たちも共に病んだ心で生きていたということ。

 私の生き方の変化は、いつも激しくて、彼女たちにはおそらく適応不能であっただろうこと。
 だから、もし今後、私に安定した男女関係を結べる相手が現れたなら、それは自分の人生が最終ステージに入り、もはや劇的な変化を要しなくなったということになるだろう。

 その日が来るかどうかわからない。神のみぞ知る。
by ecdysis | 2013-10-15 00:26 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

悲しくてやりきれない

アディクションを停止して襲ってくるいらだちと、なによりも深い悲しみの噴出に耐えている。
私の子供の心は、悲しみに塗りつぶされている。
母の悲痛な姿と泣く声を日常的に見ていたからだ。
子供にとって母親は世界そのものなのだから、悲しみ泣く母は、私の世界観を決定づけた。

だから、子供の私は思っている。
この世界は、悲しみばかりが存在していると。
喜びや楽しみや永続するそれらは、すべて偽りであると。
この世にもっともふさわしいのは鎮魂歌であり悲歌であり嘆きの歌である。
歓喜の歌や激励の歌や生命の謳歌はフィクションであると。

ぼくは、悲しくさびしく暗い心の雨雲の下でのみ生きている。
こんなに風雨続きなのに、その雲の上にお日様があって
この雨がやんで晴れることがあるなんて信じられない。
ときどき日が差すことがあってもすぐに元通りになって雨が降る。

でも、もしかしたら、ぼくが知らなかっただけで、体験できなかっただけで、
本当に、この世には、喜びや楽しみや、永続する善にして明るい出来事があるのではないかと、
ぼくは今日、はじめて思った。

やりきれない救いのない、この悲しみよ、悲しみよ、悲しみよ。
祖母の、母の、私の、悲しみよ。
祖父の、父の、私の、幼稚さよ。
世代を越えて受け継がれた絶望よ。
希望が裏切られる辛さよりも、
あらかじめ絶望していた方が楽だと、
救われることを放棄した心よ。

ああ、いつまで、この絶望と悲しみとあきらめに敗北し続けるのか。
愚かな父たちの機能不全の蹂躙の記憶にとらわれ続けるのか。

もうやめたい。
人生はしょせんこの悲しみのやまない風雨ばかりだと思うことを。
人生は巨大な悲苦と微々たる喜びだけで成っているのだと思うことを。
そう思い続けることをやめたい。
生きることは否定すべきことばかりで、肯定すべきことなどほとんどないと思うことを。
もうやめたい。
そんな人生観をやめたい。
by ecdysis | 2013-10-09 01:42 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(6)

名誉と栄光のためでなく

「名誉と栄光のためでなく」は、若い頃に読んだ、フランスの作家 ジャン・ラルテギーの戦争小説の題名。
小説のことはともかく、この題名がいたく心にのぼって消えない。

 ACとしての自分は、結局この「名誉と栄光を得て人から称賛されなければならない」という母の願いから始まっていたと思う。

 おそらく、ほとんどの人たちが、この世に生まれて「名誉と栄光」に迷う。
「家庭の病」とACの問題には、常にこの「名誉と栄光」への要求がつきまとう。
「名誉と栄光」は、裏を返せば「恥と挫折」ということになる。
「名誉と栄光」を求めれば求めるほど「恥と挫折」を避けようとする気持ちが強くなる。

「名誉と栄光」を求めるのは向上心と進歩につながるから、もちろん悪くはない。
しかし、それを至上至高の価値と目的にしてしまうとき、人も家族も子供も病んでしまう。
「名誉と栄光」を得る代わりに、大切なものを見失ってしまう。

それは「名誉と栄光」の美酒に酔う快感と絶頂感への期待と高揚感を求めるからだ。

「名誉と栄光」があろうとなかろうと、私は生きてゆく。
たとえ、それが恥と挫折にまみれたものでも、「名誉と栄光」以外のものを大切にしながら、私は生きてゆく。
by ecdysis | 2013-10-03 03:50 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)