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私はアルコール依存と発達障害の父親とキッチンドリンカーになってしまった母親と、自己愛性人格障害の粗暴で猜疑心・嫉妬・憎悪の固まりだった祖母といつも酔って悪態暴言をわめいていた祖父たちの間に育った。母方は祖父母はじめ皆いたって正常な人々だったが、父方の祖父母の実家は、酒と男女関係に依存の問題のあった家柄だ。数代前までの家系親族の系図を各人の問題といっしょに書き出すジェノグラムをつくれば、父方には悲惨な世代連鎖の軌跡が明白にたどれるだろう。 

 私と血のつながった五親等内には、アルコール、セックス、薬物、ギャンブルの依存をもっている人たちがいるし、不倫や女癖の悪い人もあったし、三十歳台で飲酒や薬物が原因で死んだり廃人になった人もいる。またギャンブルのあげくホームレスになり行方知れずの人もいる。全員が父方の血筋である。

 そんな家庭環境の中で育った私は、家族の狂気の影響を受け続け、それを苦痛に感じ恐れながらも、当たり前のこととして日常の情景として馴らされてきた。その狂気の磁場ともいうべき環境で磁化された心を持ったまま健康な社会に適応することは不可能である。私が、16歳の時にフラッシュバックを起こして、「こんなひどい家庭環境で育った自分はろくな人生を送れない」と絶望したのも当然だ。狂った教育という異常なプログラムを施されたのだから。大人たちの病んだ精神と日常的に接触していれば、元は健康で正常な人でも、やがては病んでしまうのだ。

 私は、こうした病んだ大人たちの憤怒と憎悪、恨みと妬みの風に吹かれ、不安と不満、絶望と恐慌の空気を呼吸して育った。どうして、長じてから狂わずにいられたであろうか。私は、彼らの無知と迷妄、愛欲と我欲をもおのれのものとして成長した。そこから抜け出すには自力ではまず不可能だった。

 私の心に吹いた無秩序で理不尽な家族の病の風は、そのままでは自殺か破滅しかもたらさないはずだった。それゆえに、私自身が生き延びて回復するために強烈に秩序と正義を欲した。変わらぬ秩序と不壊の正義のありかを探した。はじめは、結婚して家庭を営むという世間の常識に、次はカルト宗教や性格改造セミナーに、やがて新約聖書のキリストの言葉と旧約聖書に、神道に、自助団体のプログラムに、今は仏教にと探索の手は休んでいない。カルト宗教と性格改造セミナー以外は、みな日常的な学びの対象として折々気づきをいただいている。それらの和洋の伝統ある教えは、いま少しずつ私の中で融合を開始しており、普遍的な中心部が見え出しているような気さえする。

 はじめは秩序と正義の依存対象だった実母はキッチンドリンカーになって、その座から滑り落ちた。私には、新しい確かな規範が必要だった。それが、世間の常識からはじまる「規範探し」の流浪の旅の開始だった。想えば、これさえ信じていれば大丈夫という絶対的に依存しうる規範を三十年以上も探してきた。しかし、それさえ信じれば人生すべてがうまくいくなどという万能の特効薬のような教えは、正統でまっとうな宗教や神の道にはありえないことが、やっとわかった。もし、これさえ信じれば万事うまくいくと喧伝する宗教があるとすれば、それは宗教の看板を掲げた詐欺だといって差し支えないと考える。

 座禅をしてみて、諸行無常をわずかでも観じられるような気がする。生まれたものは現れ、現れたものは消え去る。森羅万象、万有万物、万人生きとし生けるものすべてが、生まれては現れ、現れてはやがてこの世から消えてゆく。絶対的な規範があるとすれば、この諸行無常と生滅の法則でないかと思う。

 

by ecdysis | 2017-03-31 03:07 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

 三十年も前に、あるカルト教団に入信したのをきっかけに、その教団とは関係のない一般の学者の書いた般若心経の解説本を読んだことがある。その中で、著者の知り合いがうつ病になったとき、一人の友人が「水面に映った月は波に揺れるが水の底にさす月の光は変わらない」というような歌をあげて、それだけを2~3か月ずっと考えさせたら、うつ病が治ってしまったという記事があった。

 当時は、なぜそんなことで治るのかまったくわからなかった。
 とりたてて何の変哲もない光景を詠んだ歌が、なぜ心を癒すのかまったく理解できず、何かの知的遊戯・観念の遊びとしか思えなかった。あるいは非常に高度な深遠な哲理があるのだろうかとも首をひねるばかりだった。

 今、二度目を読了する「修証義講義」の中にも、やはり道元禅師の言葉で「眼横鼻直(がんのうびちょく)」というのがあって、これも最初はよくわからなかった。これは、道元禅師が宋の国に仏法を学びにいって帰国したあと寺を建てるとき、「自分が宋の国で学んだのは、眼が二つ横についていて鼻が顔の真ん中にまっすぐ縦についているのがわかるようになりました。だから他の僧侶のようにいかにも仏法というような経典類は持ってきませんでした」とおっしゃったという禅語のひとつ。

 座禅してみて、いささかでもこの言葉のすごさが感じられるようになったし、それがACの回復にも重要な要素になるだろうと思っている。

 座禅するときは、まず神仏に保護と導きをお願いする合掌一礼をしてから、おきまりの脚の組み方で姿勢を定め、座禅を開始する。最初は雑念が起こるけれどほったらかして、自分の呼吸や下腹部の前で重ねた両手の間に意識をもっていって、視線を90センチほど先に落としてとにかく、座り続ける。そしていまここにいない人のことは考えない。いまここにないものごとについても考えない。過去も未来も考えない。今この瞬間の座っている自分にだけ意識を集中する。それだけを心がける。
 そうしていると、今まであったのに意識していなかったストーブの音や風や外の物音が、いやにはっきりと鮮やかに聞こえてくる。耳に入ってはいたのに、音としてまったく認識せず、聞こえていなかった音たちだ。

 それに気付いたとき、私は自分がいかに日常生活で、ものごとを「あるがままに認識していない」かを思い知らされた。
 いつも心は不安や恐れや心配事や怒りや後悔や恥や、何かの構想や欲や願望の念で回転していて、見ていても見ず、聞いていても聞こえず、さわっていてもさわっていないのだ。

 ACは、特に過去のトラウマへのとらわれと未来への恐れで、「現在がない」「自分がない」人種なので、ことに生き方に支障を来すほど、「あるがまま」からかけ離れている。

 あるがままに見るというのは、当たり前のことが当たり前に認識できるということだ。だから、当たり前のことを当たり前として認識できないのがACなのだ。当たり前のことを当たり前に認識している普通の人たちの中で、トラウマによる認知障害のあるACは、生きづらさを感じて社会不適応を起こしてしまう。

 なによりも痛ましいのは、自分をあるがままに見るということと、自分を痛めつけることの区別がつかないACの人が多いことだ。肉体的精神的に虐待されて育ったので、「生きること=痛めつけられること」と体が覚えている。やることなすことすべて「自分で自分を虐待する行為」になってしまう。

「あるがまま」とは良いところも悪いところも、病的なところも健康なところも同時に認識するということであって「まず自罰と自己虐待ありき」では、とても自己の振り返りなどできるわけがない。

 あるがままに見る訓練をすれば、恐れていたことも恐れるほどのことはなかったとわかってくるし、心配事のほとんどもトラウマからくる妄想だと納得できるようになる。
 私もそうなったが、ACはトラウマによる一種の認知障害を持っていると思ったほうがよい。
 五感のレベルでも、トラウマからくるひっきりなしの妄想で頭は常に多忙で、現実に起こっている現象に適切に対処することが困難になる。

 あるがままの自分、あるがままの世界、あるがままの人間関係・・・その認識こそ、真の自由と個性と主体性に不可欠のものだ。



by ecdysis | 2017-03-23 01:20 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

 春の彼岸を迎えているが、私は今月から、「修証義(しゅしょうぎ)」とともに、さる高名な曹洞宗の禅師が昭和13年(1938年)に出された書籍の復刻版を読んでいる。そこに座禅の仕方が親切に書いてあったこともあり、自分で座禅の真似事を初めている。アルコール依存の自助団体の回復プログラムにも、瞑想と祈りが依存症からの回復に不可欠であると書かれていることを気にし続けてきたが、瞑想の仕方を教わる機会がなかったので、思い切って独習をはじめた。 

 本当は、近所の禅寺の座禅会にでも行けばよいのだろうけれど、そこまで時間と労力を費やせない。また、本に書いてある座禅の仕方が初心者でもすぐにできるような詳細で懇切な手引書なので、自分でもできそうに思えたから、やってみることにした。禅師の書かれた文章には「座禅を好きになることが肝要」とあり、その勧めの言葉に心が動かされた。

 座禅の結果、何が起こったかは、ここですべてを書くことはとてもできないが、予想しない良い内面の変化があったことは確かだ。仕事や日常生活で起こるいらいらや、人を責めたり他人のささいな言動を苦にして気に病む頻度が減ってきた。
 座禅中は静かな気持ちになれる。いやな記憶がよみがえるとか、別の自分が爆発するとか、そういうことはまったくない。いろんな感情が渦巻き反応している日常生活の雑念や精神的な騒音が消えるか、かなり低いレベルに下がる。自分がひとりで静かに座っているだけという事実を淡々と感じて受け入れるだけだ。いわば、いつも他人や物事や過去の記憶にとらわれ支配されひとときも休まない心が休止モードに入る感じだ。たかだか10分から20分程度の座禅でも、欲や恐れや不安や快苦の感情に、高速で回りっぱなしの心のモーターが静かな低速回転になっていくようだ。

 ACとしての自己の認識にもこれまでより深いレベルでの視座が生まれつつあるのを感じる。

 そのひとつが「アディクションは、本人が言葉にしたくてもできなかったことや、言葉にすることを恐れている感情の表現手段のひとつである」ということだ。家庭での悲惨な体験の記憶にともない、怒り、恐怖、不安、パニック、絶望、だれか助けてと叫びたかった強迫的な感情など、自分でも忘れているインナーチャイルドの感情を、いわばアディクションで狂っている自分の姿を通して、だれかに伝えたいしわかってほしいというメッセージを発しているのだ。

 健康な家庭では、ネガティブでもポジティブでも自分が感じた感情を、家族に話して共感や受容を与えてもらえる。しかし、AC家庭では、そんなことはまずありえない、当たり前のことを願っても虐待され拒絶され圧殺される。不当ででたらめなことを嫌だと思っても強制され従わせられ強迫される。

 私もそうだが、「こんなのいやだ」「あんたらまちがってる」「こわすぎる」「みじめすぎる」「痛い苦しいこわい」「やめてやめてやめて」「ふざけるな」「おまえなんか父親じゃない」などなど、自分でも忘れているトラウマ原体験のときに感じた感情のすべてが自分の中にそっくり残っている。忘れていることと消え去ることはまったく別のものである。忘れていてもあるものはあるのだ。

 どんなに押し込めてもあるものはある。そして、あるからには外へ出ようとするし、表現への欲求が生じる。だれかに伝えずにはいられず、だれかにわかってもらいたいと欲せずにはいられない。それがインナーチャイルドの本心であり、本音なのだ。だからこそ、医者やカウンセラーや自助団体などで、自分の過去にあったことや過去に感じた感情を話したり書いたりして表現することが必要なのだ。ACの回復には「自分の過去現在の心と感情を表現すること」は不可欠の最重要項目といってもいい。飽きるまで表現していくことで変わっていける。

 そして、もうひとつ気づいたのは、アディクションは原家族の中に蔓延し習慣化していた不条理や過ちや罪悪や非常識さの象徴行為ということだ。私のようにアルコール依存と人格障害の大人たちの狂った感情を、日常的に生活の一部にしてきた子供は、大人になってもその「狂気」「異常性」を、無自覚のうちに生活の一部にし続ける。いわば、親や家族からの負の遺産というか負の目に見えない家財道具を持ち運びして生きるようなものだ。

 だから、健康な人たちからは、狂っていたり異常であると思われるような事柄でも、AC本人にとっては、それが「原家族では当たり前だった習慣であり生活の一部だった」ために、本人には本当には自覚できないし、それのない生活も想像ができない。直せといわれても病気だと指摘されても、自分では「あたりまえのこと」「それのない日常など考えたこともない」ので否認や無視をするしかない。飲めば泥酔が当たり前の家庭で育った私が、酒を飲むということはイコール泥酔することだと信じて疑わなかったのもその一例だ。

 そして、それが問題だと気づいても、当たり前の習慣となっていたことを苦痛なしに手放すのはきわめて困難だ、
 良くない習慣や狂気じみた言動でも、いざ手放してやめたときに襲ってくる孤独感や惨めさや寂しさは耐えがたい。やめたときのよるべなさや抑うつには、筆舌に尽くしがたいものがある。

 それらの問題を「よごれたもの」とすれば、それらから開放された生活は「清らかなもの」といえるだろう。
 汚れたものがあって当たり前だった生活から、よごれたもののない清らかな生活に移るのは、AC本人にとってはそう簡単なことではない。きれいな部屋の方が気持ちいいはずだと普通は思う。しかし、ゴミだらけで掃除などろくにしない部屋で育ってそれが当たり前だと信じて大人になった人は、ゴミを片付けてしまったら非常に居心地の悪い寒々とした感覚になってしまうだろう。

 少なくとも、清らかなものよりも、よごれたものの方に親しみを感じ、あって当たり前と思ってきた。だから、清らかなものは、それの価値を頭では理解するけれど、慣れた感覚がついていけない。よごれたものがないと寂しいし物足りないし、あるべきものがない感じがして、強い違和感や居心地の悪ささえ感じるのだ。

 だからこそ、瞑想などを通じて、よごれたもののない精神状態を感じることを習慣づけて、清らかな健康な生活に慣れていくことが必要だと思えてならない。



by ecdysis | 2017-03-22 02:05 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

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