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 神は超えられない試練を与え給わないと、よくいわれる。
 その意味は、ただそういうものであると思っていた。
 しかし、より深く考えれば、試練とはなんだろうか。
 それはテストと言い換えられる。
 つまり、乗り越えられるかどうか、自ら志願してこの世に生まれて試験を受けていることになる。

 試練となる逆境や事件事故は、いってみれば、それを乗り越えられれば、そのレベルまで人生学習が進んだということではなかろうか。
 まるで棒高跳び競技のようだ。そのバーの高さを超えられれば、そこまで実力がついたことになるし、超えられなければ、超えられるまで練習しなければならない。だから、同じ高さのバー、つまり同じ試練を超えられず、何度も失敗し挑戦を繰り返すのは当然のことだ。この高さは無理だとあきらめたら、成長とその先にある新しい予想もしなかった素晴らしい人生の景色を体験することはできなくなる。

 与えられた試練は、一度や二度の挑戦で超えられるようなものではない。むしろ、何度も失敗し、それでもあきらめすしつこく練習をかねて挑戦し続ければ、必ずいつか乗り越えられるからやりつづけなさいと、神様が監督コーチをなさっているのだと思う。

 だから、どんなアディクションも、何十回何百回とスリップしても、いつか必ずやめられると信じることが大事だ。
 まず、いつかかならずやめられると信じ、やめたいという意志を持ち続けること。
 そして、その意志を放棄さえしなければ、必ず何年後か何十年後か、いつになるかはともかく自然に肩に力を入れることもなく、やめられるタイミングが与えられる。

 つづめていうと、「やめたいという意志を持ち続ける」「やめられるタイミングが必ず与えられると信じる」という二つの教訓だ。

 私は、高校時代に覚えたタバコを、7年がかりのスリップの悪戦苦闘のあげく27歳でやめることができた。
 そのときに得たのが、この二つの教訓だった。だから、それから15年後に酒をやめるときも、うつ病になったりはしたものの、やめること自体は、タバコのときほど苦しみ悩まないで済んだ。

 何度スリップしても、再発しても、自己嫌悪に陥ることなく、自分を責めることなく、「いつかやめられるときが必ず来る」と信じ続けること。

 回復にとって、自己嫌悪も自己卑下も自責も、いずれも有害無益な感情だから、持つ必要はまったくない。
 持ったところで回復の足をひっぱることはあっても役立つことはない。まったくの時間の無駄である。これも、私が体験上、身をもってわかったことだ。

 やめられない自分を正当化したり、責めたり、恥じ入るのではなく、やめたいという願いを持ち続けることである。だいたい、自責も自己嫌悪も、根底には「人に責められる前に、あらかじめ自分で自分を責めておく」という無益な自己防衛がある。人に見せるために回復するのではないのだから、そんなことをする必要はないのだ。

 自分のための回復であると覚悟すれば、スリップしたとて誰にそれを恥じることがあろうか。責めるものには、責めさせておけばよい。やめる努力をあきらめなければよいのだ。

 試練は「超えられるから超えてみよ」という神のコーチであるし、「そこまで成長している」という人生学習の里程標でもある。

 アディクションは、私個人に現れているが、実は自分自身だけが原因の症状ではない。私個人と私の父方・母方・祖父母以前の各方を問わない、先祖代々の自我の弱点の集積した現れが、今のアディクションだとしか思えない。

 心理学者ユングは、現在の肉体をもった一個人は、それぞれの過去の祖先たちの一族の集合体の先端の一点であると説明している。民俗学的な言い方をすれば、祖先霊集団が全体で一本の鉛筆をなしているとすると、私はその鉛筆の芯の先端であるということのようだ。

 生身の本人はまったく自覚がないけれど、実は一個の肉体人の背後には、何百何千人もの血のつながった祖先の人々の存在と経験が、個人の肉体という形をとって現存し支え、あるいは足をひっぱっている。祖先の人々は遠い離れた場所のだれかではない。今現在も、私の遺伝子の一部を構成して、この肉体とともに生きているのだ。遺伝子には、肉体的に特定の病気になりやすいなどの傾向が記録されているだけではない。医学的に証明されたわけではないが、各祖先の人生経験の痕跡ともいうべき霊的・想念的なものも記録されているはずだと、私は信じている。

 ゆえにアディクションに陥って苦しんだ祖先たちの経験も、そこには現存している。

 家族や親戚や一族の問題行動や事件を過去数代にさかのぼって記録し、俯瞰して治療に役立てる「ジェノグラム」を作成してみても、そのことが感じられると思う。

 私は、それを超えて回復すべき試練を与えられたのだと、最近は思う。

 酒や異性やギャンブルやいろいろな依存を止められなかった先祖累代・親戚一統の業(ごう・カルマ)を、自分が敢えて引き受けて解消する役割をもって生まれてきたとしか思えない。先祖が、アディクションによって繰り返したであろう、自責、自己嫌悪、自己卑下、自己正当化、羞恥の感情の罠にとらわれなければ、必ず回復できる。

 もうすぐ新盆だが、それこそが、真の「先祖供養」というものだろうと思ったりする。

 キリストも次のようにいっている。

「マタイによる福音書」 7章 7節-12節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者※でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。
まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
これこそ律法と預言者である。」

※心炎注:「悪い者」とは、道徳的に悪い、まちがっている、というほどの意味。

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by ecdysis | 2018-07-13 00:56 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(1)

 友人と電話でアディクション(嗜癖)と瞑想について語り合っているうちに気づいた。
 瞑想に対して理解も興味も持たなかった、かつての私のような人は、瞑想する人の姿に何も刺激を感じられず、効果のほども即効でみえるわけではないので、興味が持てなかったのだと。

 アルコールへの依存等、嗜癖を持っている人は、自分の記憶やトラウマや感情的な本音に向き合わないために、常に新しい刺激を求めている人種だから、刺激なしに生きていける時間を経験したことがない。
 それらの刺激の大方は、飲酒や薬物、ギャンブルや買い物・万引き、食べ吐きに自傷行為、異性依存や共依存などの対人依存、怒りや否認行動への依存などのどれかにふくまれる。
 だから、そういう刺激を与えてくれない瞑想に、興味がわかないのも当然だった。

 たとえ、平安や落ち着きが欲しいと思っても、「平安」も「落ち着き」も、そういう別の刺激があるのだと思い込んでいた。
 言葉を変えると、平安や安心も、どこか「刺激がないことは退屈なこと」と思い込んでいて、平安な状態が永続するとはまったく信じられなかった。平安と退屈の区別がつかなかった。だから、酒とか異性に依存したりカルト教祖を盲信したりもしたわけだ。

 刺激から離れないと平安は得られないということは、このブログの2017年10月2日の記事でも、自分が刺激に依存していたという気づきを書かせていただいた。
 最近、そこからさらに深い気づきがあった。

 刺激を離れる行動のひとつとして座禅を始めたが、いざ継続してみて、はっきり実感したのは「平安とは、刺激を離れたときに自分の心に初めて起こってくる」という事実だ。やはり平安は、嗜癖と刺激から離れたところにしかない。「落ち着き」も、刺激に逃げたり紛らわせることをやめ、あるがままを受け入れようと思えたときに生まれると実感できた。
 平安と落ち着きを得るには、刺激を求めるのをやめること。一分でも二分でもいいから、一日に一回は、座禅でも瞑想でもヨガでもやって、刺激を求める以外の自分と出会い続けること。

 そのような「刺激から離れて得る平安」をちょっとずつでも感じ続けた結果、自分が本当は何を求めていたのかを知った。まるで忘れていたことを思い出したかのようだ。今までの自分は、本当に求めていたことが見えなくなり、感覚が刺激で麻痺して、自分の本心にさえ盲目だったことに気づかされた。

 それは、一か月ほど前に座禅中に訪れた。
 その晩も、毎晩のように行う座禅を行った。
 そのとき、いつも公案がわりに心に繰り返す偈(げ=仏教で唱える教えの詩句)があるので、それを心に繰り返した。

雪山偈(せっせんげ)
「諸行無常」(しょぎょうむじょう)
「是生滅法」(ぜしょうめつほう)
「生滅滅已」(しょうめつめつい)
「寂滅為楽」(じゃくめついらく)

 意味は後述するが、この偈は仏典にある以下の挿話(心炎が適宜に要約)にもとづいている。
 雪山はヒマラヤ山脈のこと。そこで修行していた菩薩の名が雪山童子。童子は、お釈迦様の前世の一人物である。
 ちなみに「菩薩」とは、「ボーディー・サットゥーバー」の漢訳語で、「多くの人を救おうと誓って修行する者」というほどの意味。 自分さえ悟れればよいとする自我の残った小乗的な修行者よりも霊性の進んだ、無私無欲・利他・自己犠牲に徹した修行者のこと。
 その童子が、ヒマラヤ山中で悟りを求めて修行しているとき、山蔭で「諸行無常 是生滅法」と美しい声で歌っているものがいた。だれかと思ってたずねてみれば恐ろしい姿の鬼だった。
 雪山童子は「おまえがいまうたっていた偈は素晴らしい。だが、まだ続きがあるはずだ。どうか教えてほしい。悟りのために重要なことにちがいない。その続きがどうしても知りたい、教えてほしい」と懇願する。
 すると、鬼は「教えてもいいが、わしは腹が減ってたまらぬ。お前を食わせてくれるなら教えよう」と迫る。童子は覚悟を決めて、「わかった。教えてくれたら、誓って私の身をおまえに差しだそう。決して嘘はつかない。ただ、教えてくれる偈を私ひとりが聴きっぱなしでは勿体なさすぎる。後の者たちに書き残す時間を少しくれ」
 鬼は了承して、続きを「生滅滅已 寂滅為楽」と教える。
 童子は、これこそ悟りの言葉だと喜び、偈を書き残そうとするが墨も筆も書くものが何もない。そこで童子は自分の体を傷つけて血を出させ、血を指に塗りつけて、そこらじゅうの木や石や岩に、いくつもいくつも同じ偈を血書し、きっとだれかがこれらのうちのひとつでも他に伝えてくれることを願った。
「さあ、鬼よ、私はなすべきことをなした。これからお前に身をささげるために、この崖から身をなげる。わが肉体を食すがよい」というや、谷底へ身を躍らせた。
 次の瞬間、鬼は梵天(ブラフマー)に姿を変え、その正体を現して手のひらに童子の体を受け止め、童子の行いをほめたたえたという。

 この鬼を装った梵天の教えの偈の意味は、現代日本語では以下になる。

雪山童子の偈
(心炎の私訳)

諸々の行は常無きものにして
(あらゆる現象は常無く変化をとめることはない)
 
是れ生じ滅するは法なり
(このような現れては消え、消えては現れるように見える森羅万象の現象は仏の普遍の法則に従っている)

生じ滅するを滅し終われば
(生じた滅びた、現れた消えたという目に見える現象へのとらわれを、すっかりなくしてしまえば)

寂滅をもって楽と為さん
(永遠の静けさを楽しみと為す境地に達して、二度と元に戻ることはなく、この世に生まれかわることもない)

心炎注:「生滅」の「滅」は、「本当は変化するだけなのに消滅したかのように見えて心にとらわれとなる現象」をいう。
「滅已」と「寂滅」の「滅」は、煩悩を滅ぼして二度とかき乱されることがないという意味。「寂」は、そうして初めて味わえる永遠の静けさを意味し、「為楽」はそれを楽しめるようになるの意。「滅已」の「滅」も、逆行したり元に戻ったりしない、完全な止滅をいう)

「永遠の静けさ」という訳語が、座禅中に思い浮かんだ瞬間、それこそが私の求めてきたものだったと気づいた。
 本当に私が欲しかったのは、それだったのだと、座禅しながら感きわまり嗚咽してしまった。

「永遠の静けさ」とは「永遠の安らぎ」「永遠の喜び」をも意味し、それは「肉体は死んでも魂は不死である」という意味での「永遠の命」をも暗黙の前提として包含する。

 物質的刺激や自我の刺激を離れて、より霊的な平安の世界を求めている自分の深奥の心を発見し、そこに落ち着こうとすることが大事なのだと、改めて気づかせてもらった瞬間だった。

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by ecdysis | 2018-07-11 22:43 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)