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 あまりよく知らない人たちの間にいると、心のどこかがいつも緊張して落ち着かなくなる。外見はそうは見えないかもしれないが、小学校1年生ぐらいの自分が顔を出す。その子は、まわりの人たちに「ぼくって、いいこ? だいじょうぶな子?」と、何度も何度も繰り返し聞きたがる。

 小学校一年生の初めての授業参観の日に、後ろに立っている母親が気になって気になってたまらず何度も何度も後ろを振り返ってみた記憶がある、。そのときの情動がよみがえる。母親がちゃんと自分を見てくれているかどうか、とても気になって仕方なく、何回も後ろを振り返った。その衝動をおさえられなかった。
 後から、母親が「あのとき、おまえは何度も何度も後ろをふりかえっていたよね」と述べていたから事実なのはまちがない。

 そのときの自分を振り返ってみる。とにかく、母が自分をちゃんと見守ってくれているか気になって仕方なかった。不安とかいなくなるかもとか思ったわけではない。そうではなくて、「かあちゃん、ぼく、これでいい? これでいい?」って尋ねたかったのだとわかる。

 当時は、父母が、陰険なアル中と人格障害者の祖父母から逃れて、塩釜のアパートに引っ越しており、なおかつ父が東京に出稼ぎにいっていたので、母と私と妹の三人ぐらしだった。
 その中で、母から虐待を受けていたことは、すでにこのブログで記した通り。

 今やっとわかったが、私が母に「これでいい?」と何度も振り返ったのは、激しくも切実な「承認欲求」であったとわかる。
 では、その承認とは何についての承認だったのか。
 それは「叱らないよね? ぼくをぶたないよね?」という母への恐怖からくる「安全保障」を求める承認欲求だったのだ。

 母を振り返らずにはいられなかった衝動の激しさは、母への恐怖の激しさでもあったとわかる。「こういうぼくを、たたかない? 叱らない?」と母親に確認したくて振り返っていたのだ。母が自分を叱ってひっぱたきたくなるような気持ちに、またなったらどうしようかと恐れ、そうなっていないか、必死で知りたかったのだ。教室ではなにくわぬよそ行きの顔をしてる母でも、家に帰ったらあの密室で、またののしられぶたれたりけられたりするかもしれないのだ。

 母への甘えよりも、そちらの方がはるかに強い動機だった。

 それは、同時に、なんとかして母にたたかれず叱られないためには、どうしたらいいかという子供心に生き延びるための算段を必死で探す作業のはじまりだった。
 虐待されないためには、母の気に入るような自分にならねばならなかった。母の気に入るような子供にならねばならなかった。成績のいい、従順な、母の気に障るようなことを一切しない、反抗も抵抗もしない羊のような子供にならねばならなかった。

 これは教育ではなく「調教」だ。母も自分の父母から厳しい折檻を受けたというから、そのやりかたを踏襲したのかもしれないが、虐待という暴力で自分の子供を想う通りにしようとした支配の事実は消えない。

 むろん、母自身も当時の私への態度がひどかったことを認め「かわいそうなことをした」と涙ぐんではいたが、そのことをもって私に謝罪の言葉があったわけではない。彼女にとっては「過ぎた過去への後悔」であって、そのとき受けたトラウマに私がどんなに苦しみ後遺症を負っていたかは、私も言わなかったので、それを知ることなく彼女は物故した。

 暴力であれ心理的圧力であれ、「子供をその意志を確認することなく一方的に自分の思う通りにする」行為は「支配・調教」である。「人間への教育」ではない。なかば「奴隷・家畜」への扱いだ。

 だから、子供は無意識のうちに、自我の長じる思春期に、自分が一個の人格をもった相応の待遇を受けるべき「人間」に立ち戻ろうとする。しかし、暴力や心理的圧力によって反抗期を封じられた私のような子供は、AC性が発現し、各種の依存症・嗜癖の発現という形でしか「私は人間だ!」と叫べなくなったのだ。

「私は奴隷でも家畜でもない。人間だ。これ以上、言葉や暴力で意に反する支配を加えられたくない」
と、ACは嗜癖行動を通じて訴え続けているのだ。

 しかし、その嗜癖で死ぬのは防止しなければならない。
 だから、このブログを書き続けている。

 母の気分と顔色を必死でうかがう子供の私は、母の気に入る「正解」を常に提示できる子供になることを自らに課した。
 母にほめられ認められることを欲したのは、母に喜んでもらうという子供の愛着からではなく、少なくとも母に叱られないですむから、ほめられたかったに過ぎない。

 つまり、この時点で自然な「おかあさんの喜ぶ顔がみたいから」「おかあさんが笑うと、ぼくもうれしくなるから」といった自然な「喜び」「共感」がまったくスポイルされていたことがわかる。
 だから、虐待を受けた子供というのは、親子の間のスキンシップだけでなく、人間どうしの自然な愛着や善意や共感をも感じることができずに大人になってしまうのだ。
 これがどれほど、大きな情緒的傷害であり、対人コミュニケーション能力の損失か、はかりしれないものがある。

 結局、私は弟が死んだときまで、母が困ったり嘆いたりしないために、できるかぎりの援助もし、彼女を喜ばそうと孫を抱かせてあげようとまでしたが、それはみな「調教」の結果としての「共依存」であった。
 母を喜ばそうと孫を・・・と書いたが、いま思えば、母のために結婚しようと思うことがおかしいだけでなく、すでに私の思う「母の喜び」はイコール「叱られないために母を喜ばそうとする打算」だったわけだから、二重にゆがんだ願望だったのだ。

 母が苦しみ嘆き辛い想いをするのをなんとかしようと、必死に自分のことのように共依存行動してきたが、根底には「母に虐待されないために」という「暴力」への子供の恐怖があった。母が苦しむことへの恐怖は、結局、母のそういう状態をなんとかしないと虐待されるという恐怖が動機だったと深層心理がわかる。

 そんな感情をベースに構築された親子の情愛とは、いったいどんな愛だというのだろうか。母のためにやってきたと思っていたが、実はそれは「母に虐待されないために」というきわめてネガティブな「母のため」だったのだ。これは健全な親子の情というものではない。

 お彼岸で、父母祖父母先祖代々、有縁無縁の諸霊にご供養をささげるが、母もあの世で、息子の本当の心を知って、なにがしかの自省をしてもらえればと思う。

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by ecdysis | 2018-09-23 04:57 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)

 今、東京から四百キロ離れた郷里にいる父親の、本人は満足しているが、はたからは惨めとしか思えない暮らしをしている建物やその内部の光景を思い出すたびにとらわれ、こちらも惨めな沈んだ気持ちになる。みっともなく恥ずかしいのだ。父が誇りとすることを私はとうてい誇りにはできず強い恥を感じる。

 この惨めさと恥の感覚・記憶こそ、私が16歳のときに起こしたフラッシュバックの内容である。ものごころついた頃から16歳までに経験した、家庭や学校での惨めさ、屈辱、恥辱の場面が次々と浮かんで絶望に変わった。

 その内容のおもなものは次のようなものだった。私の体験した激しい虐待。気の狂った祖母の日毎の母への暴言・罵倒の絶叫・暴力。酔った父の酒乱の暴力と器物の破壊。酔ってケンカする祖父と父。いさかいの絶えない祖母の頭に、怒り狂ってポットの熱湯をざぶりと丸ごとかける父と、苦痛に絶叫する祖母。酔った父の振りかざす包丁が、もみあううちに祖父の側頭部を切り、床が血の海になる。それを背中を丸めて床にひざをつくようにしてぞうきんでふく母の姿。警察がきて父が逮捕され地方紙とローカル局で報道される。そのことで級友にさげすみの罵りを浴びせられる・・・等々、数々の無惨で悲惨な記憶の数々が、連続して現れて、私はすっかり精神のバランスを崩した。その結果、世界と祖母と神を激しく恨み憎悪するようになった。

 この経験が「フラッシュバック」という症状であることさえ、四十二歳で精神科医の診察で指摘されるまでまるで知らなかった。
 実感としては、このときから病気になったと感じるが、実際はすでに病んでおり、その発症としてフラッシュバックが起こったというのが正確なようだ。原因ではなく結果だったのだ。

 フラッシュバックと名前にすれば簡単な用語だが、その現実は非常に重くつらい。泣きたくなる恥ずかしさに打ちひしがれた記憶の数々が思い出され、身の縮む悲嘆と辱めに心が真っ黒に塗りつぶされるのだ。生まれてこなければよかった、存在をやめてしまいたい、この記憶を持っている自分自身に堪えられないと声をたてずに号泣せずにはいられなかった。

 私はフラッシュバックを起こしてからというもの、その恥と惨めさの記憶に囚われ、そこから逃れるために、酒を飲んでブラックアウトするようになった。これが、酒ではなく薬物やギャンブルでもまったくおかしくはなかった。トラウマ記憶という、ひとつの囚われから逃れるために、依存という別の囚われに逃げるという嗜癖の構図をそのまま経験したのだ。

 さらに、私の心に低い自己評価と劣等感と深刻な無力感という真っ黒な地層が形成された。それから、私が欲した世俗的な事柄は、振り返れば、みなその自分の惨めさを埋め合わせ有力感を得るためのものだった。

 たとえば、すてきな恋人やすばらしい妻や富や名声を欲望したが、それらがみな、自分の惨めさを補償してくれるように思えたからだ。
 その欲望が果たされなかったのは幸運であった。なぜなら、愛するから恋人にしたいのではない。この人ならいっしょに苦労してもいいと思ったから婚意を抱いたのではない。もし、一時の感情で一緒になって、結婚生活の途中でこの事実に気づいたとしたら、ふたりの間に、あるいは子供との間で悲劇が起こるだけだったはずだ。

 あたかも金持ちになった貧民あがりの男が、自分の妻に上流階級出身の女性を求めるようなものである。自分の惨めさを打ち消し、人に見せても恥ずかしくない名誉や富で飾り、もうだれにも恥じなくていい自分になったことを証明したかったのだ。そこに生まれるのは、相手への愛ではなく、相手を利用することであり、そのような結婚は、子供をACにせずにはおかない冷たい結婚となるはずだった。

 それらは結局、人に見せるための私の自我の欲望だ。根本的に、自分で自分の惨めさを癒す方法ではない。
 
 大事なのは、惨めさにとらわれている自分を自覚し、その惨めさと自分が同じと信じ込んでいる状態をやめることにある。

 祖父母の惨めさ、父母の惨めさ、自分の惨めさは、みな事実であった。確かに、そのときはそうだった。

 この「惨めさ」は「恥」と言い換えてもよい。恥ずかしい消え入りたい惨めさとみっともなさがトラウマとなった。

 私は、その惨めさゆえに、死を願い、消えてしまいたいと念じた。世界を憎み、神をも呪った。

 だが、かつてはそういう状態で生きている自分を残酷な生と恨んだが、今は「それでも生きのびてきた」という感慨の方が強い。

 大学時代に、親友に自分はこんなひどい環境で育ってつらいめにあってきたと告げたら、こう答えてくれた。

「でもよ、おまえ、いま生きてるじゃねーか」

 まさか、そんなことばが返ってくるとは思わなかったので、はっと、と胸をつかれた。ついで、不思議な感動に襲われて涙が出そうになった。

 言い換えれば、「いま生きていて、ここでこうして話ができてるじゃねーか」ということだった。
 感謝しろとか考えろというのではなく、たとえ過去がどんなにつらくて惨めだったとしても、今は惨めでない状態で、こうして人と会って話をして生きているじゃないか、という指摘だった。

 だから、私も自分自身に、そして過去のトラウマにとらわれているすべての人に、親愛をこめてこう言おう。

「でもよ、おまえ、いま生きてるじゃねーか」

 いま生きて、こうしてこのブログを閲覧している人たちに、「生きていてくれてありがとう」と申し上げたい。

「あんなにつらい経験をしたのに、よくいままで生きてきたね」と肩をたたきあいたい。

 私たちは、惨めさという戦場を生き延びてきたサヴァイバーなのだ。それだけは、まちがいない。

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by ecdysis | 2018-09-02 01:45 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)