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 ACは不幸せな子供時代を送った人が、大人になっても、その不幸せの中で身に着けた不健康な習慣や考え方や生き方を気づかないで続けているパターンをいう。
 では、健康でそこそこ幸せな子供時代を送った人達は、健全な大人になるらしいが、あいにく私もACなので実感をもってその人たちのことをコメントはできない。

 ただ、プロスポーツに夢中になったりディズニーランドやユニバーサルスタジオや各種イベントやコンサートの群衆を見る限り、「大人とはしょせん図体ばかり大きくなった子供」と定義しても、あながちまちがいではないと思う。

 仕事や職業においては常識と規則と世間体に従って「大人」を演じていても、プライベートは子供であろうと思う。もちろん、父母という立場上、「本物の子供」を養わねばならない私生活でも、子供中心の考え方をやめて、自分自身に立ち返れば、結局、子供の自分がよみがえってくるのだろうと思う。

 私が見る限り、私生活で子供っぽい趣味や口癖やコレクションなどをもっているACの人は、回復している人が多いようだ。ぬいぐるみを集めたりプラモデルやフィギュアを集めたり、アニメや特撮ヒーローに夢中になってみたり、アイドルの追っかけをやってみたり、とにかく「病的なアディクション以外の自分の好きなこと」をもっている人は回復している率が高い。(ただし、アスペルガー症候群や発達障害の人は、この限りではありません)

 たとえば、私はブートンはじめ、かわいい豚グッズを飾るのが趣味だし、ニックネームが豚を連想させる名前なので、友人からもそう呼ばれるし、一人でいるときは「ぶうぶう」とか「ぶひぶひ」「ぶーひ」とかしょっちゅうブタ語をつぶやくし、ちょっと驚くようなことがあったときには「ぶき~っ、なんじゃこりゃ~!」とか騒ぐし、ブタ語の通じる友人とは、電話で「もしもし」のかわりに「ぶひぶーひ」といいあうし、お互いあんまり調子がよくないときは、「なんか最近、ぶひだね~」とためいきまじりに挨拶するし、ちょっと閉口するようなことがあったときには「まったく、ぶひだねぇ~」とため息をつくことも多い。『はれときどきぶた』は座右のアニメになっている。

 小学校五年生のときに、祖母から気まぐれにだが、大きな熊のぬいぐるみを買ってもらって、ものすごくうれしかったのを覚えている。自分は男の子なのに、どうしてこんなにうれしいのだろうと自分でいぶかしんだほどだった。
 それだけ子供らしさを抑圧していたのだろうと、今は理解できる。
 だから、あと3年で還暦を迎えるのに、ブタ語をしゃべるような大人になってしまったのだ。別に恥ずかしいとも幼いとも思わない。
 十分に子供ができなかったのだから、これで丁度いいと思っている。

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by ecdysis | 2018-10-04 01:17 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)

 御多分にもれず、私もアニメ世代なので、大好きなアニメはいくつもあるが、特定のアニメやアニメソングの一節に、どうしても内なる子供が反応して涙ぐんだり、胸が熱くなったり、しまいにはトラウマを刺激する要素が強すぎるせいで再視聴ができない回があったりする。

 筆頭は「アルプスの少女ハイジ」。フランクフルト編が再視聴できない。アルムの山でのびのび育ったハイジが、叔母の画策で都会のフランクフルトのクララの家に連れていかれる。それからの生活は、ハイジがどんどん明るさを失い、精神が崩壊してゆき、しまいにはうつ病になるさまを毎回克明に放映していた。その過程は、私たち兄妹が母の実家で祖父母と安全な暮らしができていたのに、生家に戻って酒乱とケンカと精神障碍者と暮らす地獄にいた中学時代の私にとっては、まさにリアルな現実だった。見ていて、自分のことのようにものすごく辛かった。

 今は、こうして言葉にできるが、当時はそこまで因果関係がわかっていたわけではない。ただ、ハイジがアルムの山に帰ることが決まり、列車の窓からアルプスの山が見えてきたとき、身を乗り出して腕を振り笑っているハイジの姿を見たとき、中学2年の私は思わず号泣した。
 高校時代に再放送があり、同じ回をみたが、やはり号泣した。何回みても、たぶん泣くだろう。思い出しただけで胸がつまる。
 子供がわけもわからず理不尽で不幸な目にあうアニメが、とにかく見られない。実はアニメの「フランダースの犬」もまともに見たことがない。
 私の中の子供が、ハイジやネロの姿に自分の姿を重ね合わせているので、同一化しすぎて情緒的に耐えられない。彼らの苦しむ姿は、子供の私がトラウマを追体験することにほかならない。

 だから、アニメの「赤毛のアン」も弟から勧められて、三十歳を過ぎてから見始めたが、マシューとマリラが、私の母方の祖父母と重なり、孤児院にいたアンが、マリラのもとでしつけられていくプロセスが、小学校五年のころの私自身と重なり、毎回のように涙が浮かんだ。
 あまりに共感したので、ルイス・モンゴメリの原作も松本侑子さんの素晴らしい翻訳で読んだが、原作を文字で読んでも、やはり泣いてしまう。
 それぐらい、私の児童生徒時代は、きわめて辛く苦しく、深い心の傷を刻み続けた日々だったということなのだ。
 それで、高校になってフラッシュバックを起こし、対人恐怖とパニック障害を発症し、アルコール依存症になってしまったのも無理はない。

 その高校時代の恐ろしい苦しみは、いまでも特定のアニメソングの一節を聞くと、胸苦しく刺激されて涙腺がゆるむ。
 たとえば、ガンダム世代で富野ファンでもある私は、「重戦機エルガイム」のはじめのころの主題歌の歌詞に、いたく心がゆさぶられた。
「たしかなものが、なんにもないね、どうしてぼくはここに」というくだりにくると胸がつまって歌えない。高校・浪人時代の私の苦しみを、そのままずばりと現した言葉だからだ。

 同じことは、「風の谷のナウシカ」の安田成美さんが歌っていた主題歌にもいえて「なぜ ひとは傷つけあうの」の一節にくると、胸からつきあげてくるものがある。生家では、ケンカと罵りあいと暴力ばかりだったので、「なぜ ひとは傷つけあうの」の歌詞は、子供の私の心の声そのものだった。

 あとはアニメ「南国少年パプワくん」を四十歳を過ぎてから見始めたが、その主題歌にも、ぶわ~っと涙が出る歌詞がある。
「もう なんにも しんぱい いらないよ」が、まるで私専用のアファメーションのように響いてくる。

 子供の私は、どんなにか「もうなんにも心配いらないよ」とだれかにいって欲しかったことか。そうして、大人たちからの保護と配慮が、いかになかったかをパプワくんの歌が教えてくれた。

「もうなんにも心配いらないよ」という意味の言葉は、実は般若心経にもある。
「度一切苦厄(どいっさいくやく=一切の苦しみや災いから救う)」「無有恐怖(むうくふ=恐怖はもうない)」
 苦しみと恐怖に満ちた私の原家族の体験によって、まさにこの二つの単語を実現することが、青年期から私の人生の心からの願いとなった。

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by ecdysis | 2018-10-01 00:35 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(2)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)