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 私にとって、恋愛は刺激と快楽と挫折感と別離の痛みとデート代もままならないカネの心配で、いつも占められていた。カネがあれば、生活不安がある程度解決されていれば、とっくに結婚していたはずだ。

 刺激と快楽とカネの心配とで私の恋愛はいつも彩られていたが、そこに安らぎも落ち着きも、ついぞ降り立つことはなかった。愛する人を思い出して刺激を受けて自分を鼓舞して励みにすることはたくさんあったが、その人のことを考えることで落ち着きや安心を得ることはなかった。相手の女性に、カネの心配をさせないように、ちゃんとした社会人になりたかったが、それもできずじまいだった。

 父が会社を倒産させて、母や私たちを借金で苦しめたようなことだけは、相手に味わわせるまいと願ったが、それも実現できなかった。
 妻となる人に、経済的に苦労させてはならないという責任感は強かったが、原家族へのとらわれも強すぎて、現実の経済能力が追いつかなかった。

 自分は、現実社会での経済能力において、ダメな男だと心痛をいつもかかえていた。母が父のつくった借金で苦しむ姿を、私は見すぎていた。妻となる人よりも、まず母と弟のためにカネを稼がねばならなかった。その共依存による経済的消耗と精神的疲労がどれほど重圧だったかは、断酒してうつ病になったことからもわかる。

 いまになって、途方もなく無理をしたと思う。

 あげくに、弟も母も先に逝ってしまった。私は、一番助けたかった家族を助けられなかった。少なくとも、現世的には無理だった。

 ゆえにこそ、彼らが死後の霊人になってからの冥福を祈り、自分なりの追善供養を日々おこなっている。
 人の霊魂は永遠不滅なのだから、先に死んだからといって、彼らが死後もずっと不幸なままということはない。地道にささやかでも追善供養を積み重ねていけば、彼らが今度生まれかわってくるときには、はるかにましな環境に生を享けられるはずだと信じる。

 変えられない死という事実を、いつまでも悲しみ嘆くだけでは、自己憐憫にひたって自分を傷つけるのと一緒だ。だからこそ、日々、仏壇にお茶や水をお供えし、お線香を立て、お彼岸やお盆には手料理や菓子果物・花をお供えする追善供養を絶やさないようにしている。他者への小さな親切や、道端のゴミを拾うようなささやかな善行を絶やさないことも大事な供養である。

 そして、母や弟よりももっと不幸で見捨てられて死んだ無縁仏の諸霊にも、量は少ないが同じように毎日のように供養の茶と水と食物を捧げている。

 それら無縁仏の中には、かなりの高率でACやアルコール依存症だった人々がいるはずだ。はるかな昔から、それこそ何千何万という数かもしれない。その一部なりとも供養してさしあげることで、母と弟の供養、また祖父母やそれより前の祖先たちの霊の供養もできると信じている。

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by ecdysis | 2018-11-16 02:42 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(1)

 4月1日から4月2日の深夜にかけて起こったこと。

 キリスト研究のための資料として、シェモネ・エスレ(十八祈祷・アミダーの祈り)の日本語訳を読んだら、第一項目を目にしたとたんに感動が突き上げてきて、声をあげて泣いてしまった。
 そして、2千年前にキリストがガリラヤ湖のほとりで一人で祈っていたのは、ユダヤ人が一日に三度唱えるというこの祈りに違いないと感じた。ユダヤ人が日常的に唱える、旧約聖書「申命記」の祈り(シェマの祈り)といい「シェモネ・エスレ」という、すごい祈りの言葉が日夜唱えられていたのに、それでもユダヤ国家はローマ軍によって破滅させられた。

 祈りの言葉はすごくても、「心を尽くして祈る」という「神と民族へのまごころ」が失われ形骸化していたのだろう。神と民のためではなく、宗教者たちの多くが、人に崇められたい自己顕示欲だけで、ありがたい祈りの言葉を唱えていたために、神の御加護が得られなかった。福音書のパリサイ人らへのキリストの批判の言葉からは、そう解するほかはない。
 エルサレムの崩壊は、史実によれば、工期一世紀におよばんとするヘロデ大王のエルサレム神殿の完成のわずか一か月後であったという。そのご神意を想えば、もはや語るべき言葉を持たない。

 そのような体験の後、深夜に座禅をして寝床についた。すると、横たわる自分の頭部のレントゲン撮影のような映像が、脳裏にまざまざと浮かんだ。自分の頭蓋骨と上下の顎にならぶ整然とした歯列が見える。
 歯列と顎と頭蓋骨と喉のあたりの組織の透過映像を、私は見事なものだと感動して観察している。
 このように、見事で精緻な人体を設計されたのは、だれの意志かと思うと、それが神の御意志の表れであると感じた。 
 では、この先祖代々受け継がれる見事な人体という有機生命システムをつくられた神のご意志はいかなるものかと考えた。
 すると、そこにとてつもない神の慈愛がこめられているのを感じて、その深い広い愛情を受けたように思い、横たわりながら声をあげて泣いてしまった。

 これほどに見事で精密で完璧な有機生命体を無償で与えてもいいと思えるほどに、神様は人間を愛してくださっていると感じた。
 人間はじめ生き物の体は、神がどんなに生命を愛していらっしゃるかの現れであると強く感じて感激した。
 人間を深く深く強く強く愛しているからこそ、神はこの素晴らしい肉体を惜しげもなく与えてくださっている。
 あらゆる生き物の肉体は、神の、生命への「まごころこめた贈り物」なのだ。

 キリストが、自分の肉体をさして「この神殿」といったのは、そういう意味があったのだ。
 神の「まごころ」のましますところ、これことごとく「神殿」である。

 その感激のあと、別の相反するビジョンが起こった。
 神への信仰も目に見えない存在への畏敬もまったくもたない、長身の肌の浅黒い西アジア系の長身の目つきのするどい女が、斜に構えた腰掛姿で脳裏に現れた。黒髪を長くたらしてまとめた女は長い両脚を高々と組んで、わたしに皮肉交じりにこういうのだ。
「神の愛? あんたのいってることがぜんぜんわからない。そんなことがわかったからといって何が尊いの? さっぱりわからない。だいいち、そういう目に見えない存在をあがめていったい何になるのさ。人のために奉仕するとか、自己犠牲とか、ぜんぜん関心を持つ気になれない。あたしには関係ないこととしか思えない。神に従うなんていったい何の意味があるのさ」
 女はわるびれもせず、自信たっぷりにしっかりとした態度で「神への信仰なんて何の意味があるのかさっぱりわからない」といってのけた。
 この女は悪魔だろうか、私の心の中の悪の現れか、あるいは祖先の不信仰の集積の人格的表象かと疑問だった。
 のちに、この女の正体が判明した。現実にある人物の本音の心を現していることがわかったのである。

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シェモネ・エスレについて日本語訳があるサイト
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20131029/1383052696



by ecdysis | 2018-11-06 03:49 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

 9月23日に、スピリチュアルとしかいいようのない不思議な経験をした。私の中で大きな変化が起こっているらしい。

 晴れていたその日、買い物をしようと17時に部屋を出た。マンションの五階から、目の前を流れる荒川と河川敷で連休を楽しむ人々と、きれいな橋と高速道路と秋晴れの空を見上げた。ただ何も考えず無心に眺めていたのだが、私はなんの前触れもなく突然に、世界の実相の一端がわかり、世界を動かしている善なる意志の存在が理解され、激しい感動を覚えて我を忘れた。
 
 世界はすでに完全だった。無条件にすべてがそろい欠けているものは何もなかった。すべてが神の計画通りに、寸分の狂いも誤差も過不足もなく、あらゆるものが神の計画の通りに成就して、運行実施されているとわかったのだ。すべてに神々の慈愛がぎっしりと満ちて空虚なものはひとつもない。外見がいかであれ因縁がどうであれ、すべては神の御意志の通りに、あるべくしてあるし、その事実は過去現在未来を通じて変わらないのだ。なにごとも、どんな小事にもきちんと神の永遠の計画が絶え間なく実行に移されている。

 そう感じて、ほんの数十秒で、私はせきあげる感動に耐えられず、部屋に戻ると座り込んで号泣した。
 ありがたいのと、申し訳ないのと、うれしいのと混ざりあった感動で、西行法師ではないが、「かたじけなさに涙こぼるる」という表現がぴったりくる感覚だった。

 この世界は、まるごと永遠の御意志のもとにあり、そこから洩れているものは一つもない。永遠の御意志は、神でも仏でもハイヤーパワーでも呼び方はなんでもよい。
 この永遠の完全な世界の一部である私達も、完全な部分である。全体が完全なのだから部分も完全である。大きなダイヤの固まりを砕いても、その微粒子もダイヤであるがごとくにダイヤなのだ。
 そして、この心臓の鼓動が、私において、応分の神の永遠の計画が進行中の印だと感じた。
 
 世界はすでに完全なのに、私はそれを知らず、不完全な傷の多い世界だと思いこみ、不平と不満と改善への衝動に駆られて生きてきてしまった。なんとかせねば、どうにかせねばと焦って駆り立てられて、自分を駆り立てて生きてきた。しかし、そこまで駆けずりまわらなくとも、世界はすでに出来上がり、欠けているものなど何もなかった。
 無傷の宝玉を、傷物だ不完全だと騒いでいたのは、自分自身だけだった。世界は巨大な無傷の宝玉なのに、それの表面を電子顕微鏡でのぞき込んで「ほらこんなにでこぼこして醜い」と文句をいっていたようなものだ。「毛を吹いて傷を求む」というたとえの甚だしい事例というほかなかった。

 この世で、私達は、もともと完全な魂という姿をもっているのに、様々な人生を演じる俳優のようだ。色々な人格を演じてなりきっている。それが、この現世に生きる人の姿のたとえとして近いかもしれない。
 私達は、ドラマの収録中に記憶喪失になり、脚本上の自分の役柄を、素の自分と信じ込んで、ドラマの中を現実として「生きる」俳優のようだ。
 本来はどんなに巧みになりきって演じても、フィクションドラマの中の役は、もともとの俳優本人の姿ではない。この世で「これが自分である」「これが世の中である」という思いこみで生きている。もともとの魂が、神に似て完全であるとすれば、そういうものだとしかいいようがない。

 この日の世界の神の計画の大肯定の経験から、あらゆる終末思想は、末法思想であれハルマゲドン思想であれ、人間の思いこみにすぎないとわかった。

 世界は破滅にも終末にも向かっていない。世界を滅ぼそうとする意志は何も感じなかった。すべては、あるべくしてあり、生まれるべくして生まれ、消えるべくして消えるのだ。この見事に完成し成就された世界が、破滅や終末をその内に蔵しているなどありえない。むしろ、より完成度をあげようとしているかのように感じた。

 まちがっているのは、私という人格の「現実と信じているこの世界」への認識だ。あるがままの世界は、まるごと正しく精緻で完成されている。欠点はない。

 欠点や問題があるのは、私という意識であって世界ではない。今の人生を恐ろしい地雷原にしたのは、ほかならぬ複数の過去世の自分たちである。過去世の自分たちの、怒りと貪りと愚かさの言動と心は、人を害そうと埋めた地雷のようなものだ。
 自分の仕掛けた地雷が埋まったまま、再びこの現世に生まれ変わって、地雷を埋めたこともその場所も忘れて、私達は人生という地雷原を歩む。そして、事故災難病気被害という「地雷を踏んだ爆発」に逢う。過去世の自分が人にしたことが、現世の自分に返ってくる。それを仏教では「因果応報」という。

 釈迦やキリストや聖人覚者の教えは、因果応報の説法という形をとろうととるまいと、とにかく「過去世に埋めた地雷があることを知り、それを安全にとりのぞき、なおかつ新たな地雷を埋めることがないようにする」ための教えである。
 そのように考えれば、反省悔悟とは、過去に埋めた地雷を自分で踏んで痛い目に逢い、「地雷を埋めるようなことはすまい」と決心することだといえる。

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by ecdysis | 2018-11-05 02:09 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(2)

 女性依存のある私は、釈迦の弟子の尼僧たちの話(『ブッダとその弟子89の物語』菅沼晃/法蔵館)を読んで、いたく心が揺さぶられている。女性は悟りを開くのが難しいと古来いわれているし、釈迦も自分の養母である叔母が、男ばかりであった僧団に、初の女性としての出家を願い出たとき、何度も断っている。
 しかし、出家したいとあきらめずに繰り返し懇請する女性たちの願いをいれて、尼僧の僧団がつくられ、女性の中からも悟りを開く偉大な出家者が続出した。

 彼女たちの中には、少なからず高級遊女として有名だった美女がおり、王侯貴族から求婚されまくったほど美貌を誇った女性たちもおり、出家した彼女らを、世俗の男たちが草庵まで追いかけて待ち伏せしてレイプしたり、あるいは王宮に拉致したりして性的暴行におよぶという悲劇もたびたび起こっている。出家したからといって世俗側からの欲望を回避するのは容易ではなかった。尼たちの中には、レイプしようとした男たちの前で自分の両眼をえぐりだし、その欲望を押しとどめたという尼僧たちもいる。それらの屈辱をのりこえて、何人もの美貌をうたわれた女性たちが、修行を積んで悟りを開いた。
 名前だけをあげても、バッダー・カピラーニー尼、マーガンディヤー尼、シリマー尼、ケーマー尼、アッダカーシー尼、アンバパーリー尼、ウッパラヴァンナー尼などがいる。

 彼女らの多くは、遊女稼業で稼ぎまくって大金持ちになっていたが、釈迦の教えに触れて、愛欲の無常と、愛欲への嫌悪とを感じ、自分が老いていって容色が衰えて見る影もなくなった無常を真実に受け止めた。
 釈迦の諸行無常と肉体は不浄物であるとの教えを、本当に悟った女性たちだったことが、経典には書いてある。

 彼女らの言葉は、男である私の愛欲深い心にも、思わぬ衝撃を与えた。

 私の愛する女性たちの顔も肉体も、みな老いてゆく。過去にかかわった女性たちは、私の心の中では当時の若く美しい姿のままだが、現実の彼女たちは老いているはずだ。面影はあるかもしれないが、再会しても驚くような変貌をしているだろう。私自身も相手にそう思わせるのはわかっているが。

 不思議にも、私は自分の老いと容色の衰えを嘆く気はしない。それよりも、彼女たちが、あるいはいま若い女性たちが、その美しい若々しい肌も色艶も、乳房も腰も脚も、数十年後には見る影もなくなるという事実に、ショックを覚える。
 若い女性の美しさや、その年代の女性だけがもつ可憐さや、いきいきとした唇や首筋の輝きは、私にとっては青年時代から憧れであり、「女性」というものへの欲望と励みと楽しみをかきたてる燃料でもあった。
 それが、無常であるなどとは実感すらできなかった。なんとなく、自分の記憶とさほど変わらないままでいるのではないかと、根拠のない妄想を抱いていただけなのを、今更ながら思い知らされた。

 私が愛してめでた女性たちの美しさが、一過性のもので、やがてはだれもが喪失していくものだと信じられるだろうか?
 結婚していれば、妻の姿にそれを見出して少しずつ受け入れていけるのだろうが、私は独身なのでそういう機会はない。
 私が好んで愛し執着した可愛さや美しさが、そのままではいられない移ろうものでしかないという事実を、私は愕然とする想いで受け止めている それでは、私が永遠なれ、不変なれと無意識に望んでいた「若い女性の美」は、いったいなんだったのだろうか?

 あえて言葉にするのも虚しいがいおう。それは、私にとって「偶像」だった。「偶像」はいつか破壊されねばならない。
 それは、激しい悲しみを私にもたらした。あれほど深く強く愛着したものが、愛欲の対象としたものが、いつまでもその姿を保ってくれはしないとはなんということだろう。ある種、狂おしいような悲嘆の感情が、涙を催させる。

 いまは若くても、その娘も、三十年もすれば、若さを保ってはいられない。一世を風靡する美貌の女優も歌手も、まったく同じだ。
 今は高齢の有名女優や歌手の若い頃の写真を調べてみれば、みな信じられないほどの美女ぞろいだったとわかる。
 時は残酷だとかいうつもりはない。万人が老化と衰えを避けることはできない。
 問題は、私が心の中で若い女性の美しさの記憶を、変わらないものとして留め続けようとすることなのだ。

 若い可愛い新人のアイドルやアダルトビデオ女優たちが、何人もデビューしては消えてゆく。彼女らの現世の存在は消えないが、彼女らの若さ美しさの魅力的な時期が消えてゆくのだ。若い女のイメージに執着しつづけて、次々に現れては消えるアイドルやAV女優を、いつまでも追い続けていられるわけもない。果てしなくきりのない生滅が繰り返されるだけだ。ビデオでも画像でも、女優はちがっても煽情的なアングルやポースや体位は同じだ。制作サイドの売るためのマニュアルは同じなのだから、アイドルやAV女優たちの消費材としての価値は短期間ですりへってしまう。
 それらの画像や動画は、幻想であり実体ではない。私は、二次元の幻影を愛して好み執着していただけで、生身の実体にはなにひとつ触れていない。

 私が楽しみにして快楽をそこからむさぼっていた対象はすべて幻だったのだ。私は、幻を楽しみ、幻を貪り、幻を励みとし、幻に期待して、幻を求めて、追いかけ続けてきたにすぎない。対象が幻なのだから、現実的に実感のある出来事は何も生まれはしなかったし現れもしなかった。

 私の異性愛は、幻だった。性欲も幻に向けた虚しい欲望だった。何も残らず何も果たされなかった。永続する関係も家庭づくりも現れなかった。それらは、はじめから「こうあってほしい」という幻影にすぎなかったからだ。

 買い物帰りに気づいた愕然とする圧倒的な事実の衝撃である。私はなかば泣きべそをかきながら、ふらふらと歩いて家路についた。
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  ウッパラヴァンナー尼


by ecdysis | 2018-11-04 04:15 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)