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 お釈迦様は、原始仏典『スッタニパータ』(集成経)の中で、まったき平安の境地である涅槃(ニルヴァーナ)に至るには、「快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ること」をせねばならないと説いています(学生ヘーマカの質問1086節)。

 しかし、これがとても難しい。私は、そもそも「出口も終わりもないお化け屋敷」同然の恐怖の家に育たざるをえませんでした。私のような人間には、「快美な事物」に逃避することでしか生き延びてこられなかったのですから、それを手放すのは恐ろしい難関です。

 ACとアルコール依存と精神障害の家族の中で育った私は、「無明」と「渇愛」という言葉も知らず、自覚もせずに育ちました。そんな私には、欲望しか喜ぶものがありませんでした。情欲しか快楽を感じるものがなかったのです。生い立ちのひどい家庭の中で、喜びといえるようなものは、好奇心を満たす知識や情報、小説やマンガやアニメ以外には、情緒的に貧しい欲望とその快楽しかありませんでした。卑しくとも醜くてもみっともなくても、それしかなかったのです。

 田舎の知り合いの高齢の人の思い出話の中には、家がとても貧しくて子供のころにおやつもお小遣いもなかったので、おなかがすくと台所の親の酒をおやつがわりに飲んで酔っ払っていたというのがありましたが、それと同じぐらい痛々しい話です。

 欲望が強まると、時と場所を問わずに、過去に女性とまじわった時の、みだらで恥ずかしい、汚ない妄想がわきます。これは、欲望が穢れを求める気持ちになって現れているからです。すなわち、欲望とは、穢れを生み穢れを愛する穢れの親、穢れを好み穢れに親しむ、穢れの兄弟です。

 私は、この57年間を渇愛の奴隷として生きてきたのに気づきませんでした。渇愛の特徴である「欲望を感じることを喜び気に入っていた」からですし、「欲望は感じてあたりまえ」と思っていたからです。情欲についても、欲望と欲求を感じて満たそうとするのは当たり前と思っていました。だから、欲望こそが人生の苦の原因で、人をつらくかなしい人生へ輪廻転生させる原因だと教えられて愕然としています。

 貪りとその対象を愛する、欲望とその満足を愛するという以外の「生きがい」を見出せるかどうか。愛着してきた欲望を「もういらない」と手放せるかどうか。それがアルコールであれ、薬物であれ、ギャンブルや万引きやセックスであれ、「快美な事物」に依存することなく生きられるかどうかが今後の鍵です。

 これまでは「とにかく死なずに生き延びる」ための自己流・我流の恐怖からの回避術・逃避術を用いてきた生き方でした。生きられるかどうかの判断基準は、「自分にとって快感かどうか」だけでした。自分が生きていられるかどうかの目安は、快感があるかどうかだけでした。肉体や自我の快楽は善であり、喜びであり、生きていていいというサインであり、愛されているという証であり、安全であるという目印でした。

 しかし、現実には必ずしも、その我流の快感リトマス紙は的確ではありませんでした。むしろ、はじめは快楽なのに、次第に有害な依存に変じた飲酒の習慣のように、「有害な快楽」もたくさんあって、相当に痛めつけられましたし、自分で自分を痛めつけて来ました。
 これからは、「健全に生きのびる」ための方法を身につけなくてはなりません。

 私は、渇愛を下着のように、いつも肌につけて、なくてはならぬもののように生きてきたようです。何枚もの欲望という名の下着をはきかえて、くりかえし着用してきたのです。しかし、古今の聖人賢者たちと釈迦の教えによって、それに気づいてしまった以上、その何百何千枚という汚れたままの下着を、少しずつでも時間をかけて捨てねばならないようです。

「わたしたちは皆、汚れた者となり 正しい業もすべて汚れた着物のようになった」(旧約聖書 イザヤ書 64章5節)
(「汚れた」とは「悪臭ふんぷんたるまでに汚れ切った」ということ。「正しい業[わざ]」とは「正しいと信じ込んでなしてきた所業」のこと。「着物」は下着や肌着のこと)

 健全な生き方とはどういうことか、どうすれば正常に生きられるのかということについて、私は無知のまま生きてきました。
 その「生き方の無知」から自分を脱出させ、新しい清潔な下着をつける方法のひとつに、八正道・中道というものがあることを教えられました。どのようにするかは試行錯誤が続きますが、禅定によって祈りによって、さまざまな聖賢の教えによって、一枚一枚を履き替えながら生きていこうと思います。

 そのためには、死ぬまで、いえ死んだ後まで時間がかかるでしょうけれど、それは仕方のないことです。
 新しい生き方は、夜があけて朝を迎えるような目覚ましいもののようには感じられませんが、いつか気づいたら変わっていたというような認識しか、たぶん訪れないと思います。それでも、意識だけはしておきましょう。

 儒教の『大学』第二章三節にも、古代中国の祭祀用の水盤に次のような言葉が鋳込まれていたとあります。

「まことに日に新たに、日々に新たに、また日に新たなれ」
(現代語:いったんまったく新しくなったなら、その日から、毎日新しく、たえず毎日新しく生きよ)

 イエスの言葉にも『ヨハネによる福音書』(第3章3節)にこうあります。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」
(この「はっきり言っておく」は原語では「アーメン」。「誓って嘘いつわりなく宣言する」の意味)

 渇愛が、苦の人生・生まれ変わりの人生という「家」をつくる大工であり材料だと釈迦はいいます。その渇愛を自覚したとき、初めて人は「苦の家」をつくる者を見つけ、その家の柱や壁や材木をこわすことができると。もう、そんな「苦の家」に住む必要がなくなります。つまり、もう苦しみと試練に満ちたこの現世に生まれることがなくなるというのです。それが「解脱」「悟り」だといいます。

 私にとっては「悟り」=「神の国」という認識なので、キリスト教と仏教は「同じものを目指している」と信じています。

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by ecdysis | 2019-01-28 02:28 | Trackback | Comments(0)

 渇愛について、重複になりますが、非常に重要だと考えますので、再度、よりくわしく書いておきたいと思います。
 釈迦の話した原初の説法に近いといわれる経典は、古代インドのパーリ語で書かれたものだといいます。いわゆる南伝または上座部(テーラワーダ)あるいは小乗と呼ばれる流れの仏教の経典です。その中に「渇愛」とその解決法について釈迦が詳しく説いたくだりの経典があります。

 仏教では「初転法輪経(しょてんぽうりんきょう)」と呼ばれ、初転法輪とは、悟りを開いて最初に五人の弟子に説法し教えた内容のことです。
 釈迦の説法による「森羅万象の普遍の法」の開示は、法輪と呼ばれます。釈迦の法は、あたかも天界の王・帝釈天の乗る車の車輪のように、教えの車が他の土地の人々に走り転がって広がり、あるいは弟子や子孫に転がって教えを轍のように残して伝わるとしたものです。

 ちなみに、釈迦が悟りを開いた菩提樹の場所と、初説法しようと決めたかつての同行者たる五人の修行者たちとの間は250キロも離れていたといいます(『仏教百話』増谷文雄/ちくま文庫より)。現代の日本にあてはめると、東京から出たとして、西は浜松、北は福島あたりまでの距離です。現在のような通信手段のない時代に、釈迦がどうやって五人の居場所を知ったか、霊覚としかいいようがありませんが、とにかく250キロをてくてく歩いてお釈迦様が悟りの初の教えを授けにおもむかれたというのは、まことに感動的です。

 この釈迦の最初の説法を、法輪を初めて転がしたという意味で「初転法輪」と名付けています。
 その中に「渇愛」が「苦」の原因であると最初から説かれています。その「渇愛」(「愛欲」や「妄執」と訳すものもあります)は、次の意味と特徴を持つといいます。

「渇愛」は、パーリ語で「タンハー」といいますが、これは「渇き」「満たされない」「欲しがる」の原義を持つ言葉だそうです。欲求・欲望・要求・充足への願望をかねた言葉だそうです。

 すなわち、自分が欲望・欲求・願望を持つことを、あたかも渇いたものが水を欲しがるように愛してやまないから「渇愛」と表現しているのです。「渇きの状態を愛している」「欲望のある状態を好んでいる」ということのようです。私なりには「無自覚な強欲」と名付けたいところです。私は「渇愛の奴隷」であることが見えてきました。外見はいかであれ、みな各自の我欲(渇愛)と霊的・求道的な事柄についての無知(無明)の奴隷なのでしょう、

 自分中心の欲望・願望・要求は、渇愛ですが、それには三つの特徴があるといいます。
 ひとつは、渇きを愛するという状態は、欲望・欲求・願望が、水面に湧く泡のように、次々と個人の心にいくつも新しく生まれ、またくりかえしくりかえし起こって終わりがないということです。あれがほしい、これがほしい、ああなりたい、こうなりたい、こうしたい、ああしたい、こうであればいい、自分の思うとおりにしたい・・・などなどの想いは、すべて「渇愛」です。文字通り、渇きは水を飲めばいったんは収まりますが、また時間がたてば渇きがやってきます。渇きは毎日やってきて、しかも生きている限りとぎれることがありませんし飽きることもありません。そんな渇きと水を愛してやまないように、繰り返される欲望を愛してやまず飽きないのが渇愛の特徴です。

 二つには、欲望・欲求・願望を満たすことに喜びと快楽を覚え、足るを知らないことも渇愛です。さかのぼれば、欲望・欲求・願望を抱き感じる状態そのものに、喜びを覚え楽しみ愛していることになります。欲望を感じて、それが満たされない状態は、もともと苦しいことのはずです。それなのに、その苦しみは、欲望が満たされたときに味わうだろう喜びの予想と期待で麻痺させられてしまいます。そして、「どうしてもほしい」「こうであるべきだ」「なんとしても想う通りにしたい」という執着に変わってゆきます。アルコールや薬物やギャンブルなどの依存症は、まさにこの渇愛の特徴が病的に強化されて発現していると言えます。

 三つ目は、自分の欲望・欲求・願望の質と量に関係なく、それを喜び、そのひとつひとつを気に入り、自分にとって大事であると信じるのが渇愛です。また、そのような、快楽を求める自分を喜ばしい大切なものと思っています。
 つまり、人は苦の原因とも知らずに、自分の渇愛を喜び気に入り、楽しみ快楽を覚えて、限りなくさまざまな欲望・欲求・願望を抱き続け、生みだしながら生きていることになります。

 この渇愛は、また以下の三つの欲望として、それぞれに、あるいは三つ同時に、日常的に絶え間なく切り目なく現れます。
 ひとつは、五感の欲です。眼耳鼻舌身の欲です。自分の見るもの聞くもの嗅ぐもの味わうもの触るものにおいて、刺激を受け続け、快楽を覚え続けたいという欲求です。

 これは、直接に肉体に関することだけではありません。いい衣食住を手に入れたい、名誉名声を得たいなども、これらの欲求に含まれます。なぜなら、名誉欲・名声欲には、人々の羨み賞賛する顔を見たいという眼の欲、人々の賞賛する声を聞きたいという耳の欲がともなうからです。また、仏教では人に共通の欲望を「五欲」(食欲・性欲・金銭欲・名誉欲・睡眠欲)としていますが、それもふくまれます。この「五欲」は生きて家庭や社会を維持するのに不可欠ですが、適切な程度を超えると人を病ませるものとなります。

 ふたつめは、生存欲。生きたいという欲。自分の生きやすい都合のいい条件を獲得したいという欲です。「自分さえ生きられればよい」「自分さえよければよい」という欲。

 みっつめは、破壊欲と訳されていますが、私は排除欲・排他欲とみなすのがよいのではないかと思います。
 自分の生存を脅かすものは排除して滅ぼしたい欲。転じて、嫌いなものや厭なものを排斥して無いものにしたい欲。自分の思うとおりにならない人や事や物を消してしまいたい欲。この欲が強まって自分に向けられると自殺になるといいます。都合の悪いことは無かったことにしたい否認・否定の欲望です。

 私の場合、情欲を、渇愛の現れと認識し、格闘しています。格闘して情欲そのものを喜ぶ自分を自覚し、一時的にでも退けると、そのときだけですが、そこから名状しがたい深い悲しみのもやのようなものが、自分の中に沸き起こってきました。
 私の渇愛の向こう、渇愛の層の下には悲しみがあると気づきました。何か魂の悲しみのような、静かだが確かに深くきりのない悲哀が湧いてくるのです。

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by ecdysis | 2019-01-28 02:20 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

 生きる上での苦しみを「煩悩」といいますが、これは釈迦の教えでは「無明」と「渇愛(愛欲/渇望ともいう)」の二大原因によるといいます。
「無明」とは、道徳・倫理・神仏・聖なる原理への無知・無自覚・無視のまま生きる状態です。「渇愛」は、欲望・愛欲・執着・むさぼり・偏愛を持つこととそれを疑うこともなく楽しみ期待する生き方です。

 この二つの煩悩の素を野放しにしている状態を、仏教では「放逸」といい、「修行を怠り怠けること」をも意味します。 
 この「無明」と「渇愛」は、人として生きる上でだれもが避けられない大変な問題であり、放置すれば、あらゆる人間が心身を病んで狂ってしまうとわかります。逆に「無明」と「渇愛」をなくせば、あらゆる人間が悟りを得られるといいます。釈尊(お釈迦様を尊んでいう言い方)の言葉を学んでいくと、そういうことになるようです。

 これを自分と、生まれた家庭にあてはめてみましょう。私の生家は、道徳的・倫理的・情緒的に無惨で惑乱したものでした。私が、ひどいACになったのも、各家族の「無明」と「渇愛」がまったく自覚もされず、野放しにされて、正しく修正されることがなかったからだと分かります。

 特に「渇愛」の問題は、非常に大きいものがあります。

「渇愛(タンハー)」とは「愛着と愛執の対象に激しく渇く」という意味で、「刺激に渇く」ともいえるでしょう。欲望と貪りの根源です。サンスクリット原語では「願い・欲望」の意味もあるといいます。「渇愛」は「無明(トリシュナ)」を原因とし、両者はわかちがたく絡み合っています。「渇愛と無明」が、この現世の人々に、煩悩をあまた生み続け、輪廻転生を繰り返させるというのです。この世の一切の現象が、そもそも苦(ドゥッカ=迷い)の原因・結果・連鎖以外のなにものでもないからです。

「渇愛」について釈迦は、悟ってから最初の説法の時(初転法輪)より、詳説しています。
 それには「五欲の渇愛」「生存欲の渇愛」「排他欲の渇愛」の三種があるといいます。すなわち、「目耳鼻舌触の五つの肉体欲の渇愛」「生きたいという生存欲の渇愛」「気に入らないものは排除したいという渇愛」ということになります。排他欲の中には、自分の思うとおりにならないものは見たくない、破壊したいという欲も含まれ、これを自分に向けると自殺になるといいます。
 しかも、渇愛は全体として、五感や生存欲や排他欲に関して、喜びと快楽を感じることが特徴だといいます。その特徴こそ、渇愛の証拠だと釈迦は説いたとのことです。そして、それらが執着となり、苦の原因となり、この悩み苦しみのやむことのない現世に、繰り返し輪廻転生させる因縁となると説きました。
 ならば、私がこの世で執着し楽しみとし愛着して手放すまいとしたものごと自体が、苦の原因ということになります。

 仏教では、苦を三種類(三苦)に分ける説があります。ひとつは、苦痛苦悩そのものである「苦苦(くく)」、一時的な喜びや快楽はあるが、それが永続せず終わってしまい戻ってこないことを憂い苦しむ「壊苦(えく)」、自分の心身・言動・環境のすべてが変わってゆき元には戻せないことを憂い苦しむ「行苦(ぎょうく)」の三つです。
 生きる苦痛を忘れ、幸福と満足を得るために是が非でも手に入れたいと願望したことこそが、現世で苦しみをつくりだし、なおかつ、来世もこの世に、今回と同様の悲惨な家庭環境に私の魂を生まれさせる原因となるということです。
 つまり、現世で自分に都合のいい、自分の思う通りになる出来事や生き方に、喜びと快楽を覚え、それの追求と実現に執着すればするほど渇愛が深くなるのです。思う通りにならないのが当たり前のこの世では、思うとおりにしたい、願った通りになれと念じれば念じるほど、あらゆることに苦しみが増え、来世もまた同様の思うとおりにならない苦しみを強く感じる人生を送らねばならなくなるというのです。

 自己中心を動機とする快楽、好み、愛好、嗜好、苦痛、嫌悪、排他心、怒りは、無常による変化を受け入れられない無知である「無明」から起こります。好み愛するものといえども、みな思う通りに続かず終わり、また変わってしまいます。嫌いな厭(いや)なものも絶えず現れるので、苦しみを生みます。好きなものは好きなもので、嫌いなものは嫌いなもので、どちらも100%思うとおりにはなりません。それによる不満や怒りや憎悪や恨みや苛立ち、悲しみ苦しみが、来世に生まれ変わらせる原動力となります。それがカルマです。
 つまり、私が激しく恋人を求め幸福な性交と結婚を念願したことについていえば、それが実現してもしなくても、どちらも来世に同じような苦しい人生が待っていることになります。
 今世、その願望を手放さないで、実現できなかったとすれば、それを恨み呪って自分の運命を憎んだまま死ぬことになるとします。その未練と恨みが、来世に同じ試練を与える人生に生まれ変わらせます。反対に、理想の恋愛や結婚ができたとしたら、今度はそれに溺れ、妻子に執着し、とらわれて支配しようとし、想うとおりにならない苦しみを味わい、こんなはずではなかったと恨み、愛する家族のゆえに嘆き悲しみ怒ることにもなります。そうした嘆きと怒りをもったまま死ねば、やはり来世は今世同様の苦しい試練を味わう人生に生まれ変わることになります。

 この順逆両方の快楽も苦痛も、念願への執着ごと捨て去って、強く念願することも恨むこともない、「中道」を歩まなければ、どちらにいっても苦しい試練の待つ来世に生まれ変わることになります。
 渇愛から離れるには、「中道」を正しく歩み身につけるしかないといいます。そうしなければ、またまた苦しい肉体人間の現世を歩まねばならない。

 前世・現世・来世の三世の視野でみるならば、愛して好んで喜びを覚えたものでさえ、執着となって苦をうみ、その苦がまた次の苦の輪廻の人生を生む構造があります。
 まことに「一切皆苦(この世のあらゆる現象は苦であり苦の原因)」です。「一切渇愛」と読み替えれば、まさにその通りで泣きたくなります。
 
「わが思う通りであれ」と願い念じる執着を手放さなければ、魂の平安は永久にやってはこないのでしょう。「わが意志ではなく、神・仏の御意志の通りであれ」と願い念じることが「中道」の一つの表現です。
 つまり、今の私の人生は、自身のもろもろの前世の渇愛の結果にほかなりません。私だけではない、いまどのようであっても、現世の万人がそうです。だれの人生も、今の自分はそれぞれの過去世の渇愛の集大成を生きています。
 そして私は思います。渇愛を止めたりへらしたりするのは「利他の心・ことば・おこない」であると。布施(心身言動をもって与え奉仕する)・利生(他を生かす)の心と行いこそ、渇愛を止め心の闇である無明を照らすと。

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by ecdysis | 2019-01-21 00:18 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)