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 依存症の回復のための自助団体では、人知を超える力を「ハイヤーパワー」あるいは「神」という言葉でよく表わす。自助団体の回復のための祈りにも「神さま」と呼びかける言葉があったりする。

 いきおい、それらに関する根拠や理由を知らない人たちは、「宗教団体ではないのか」と怪しげなカルトの臭いを嗅ぎつけようとする。
 もし、その疑り深い人が、いわゆる「奇跡」を信じない人で、不可知論者であったとしても、私はその人にこう説明することにしている。

「たとえば、アルコール依存症の人たちの自助団体では、例会やミーティングとよばれる当事者の会合を定期的に開き、そこに参加するうちにいつのまにか飲酒欲求がなくなり、お酒を飲まない生活が定着します。
 彼らのほとんどは、その場所にたどりつくまで、だれもが飲酒をやめられず、自力はもちろん家族が努力しても、医者にかかっても、どうしても止まらなかった絶望的な依存に陥った人たちでした。
 しかし、この自助団体に参加し、自分の依存の体験を話したり聞いたりを続けることによって、あれほどひどかった飲酒の病的習慣がとまり、シラフの健康な生き方ができるようになりました。これは、現代科学では説明のつかない現象です。いかなるメカニズムによって、このような現象が起きるのか、明確で根本的な原因は説明がつきません。
 しかし、理論的・学術的な説明はできずとも、お酒がとまって健康な生き方を取り戻す人々が多くいるという現象だけは実証されています。
 この説明のつかない、しかし実証されている事実の原因を、あえて言葉にするならば、人知を超えたなんらかの力が働いた結果であると推測するしかありません。この飲酒依存症者たちを回復させる力を、かりそめにハイヤーパワーと呼んだり、伝統的な言い方で神と呼んだりしていますが、もともとは説明のつかない名付けようのない不思議な作用をおよぼす存在のことを差しています」

 数代前からアルコール依存症の家系で、五親等以内に問題飲酒者や依存症で死んだ人が何人もいる、私の生家のような家系の生まれの者は、健康に人生を過ごして天寿をまっとうできる可能性は、かなり低い。そんな背景の中で、断酒して生き延びていられるのは、もともと「飲酒によって早死にすべき運命にあるもの」が、「断酒によって早死にの運命を逃れたもの」になったということだ。

 この遺伝的かつ世代連鎖という重大で深刻な背景を持つ依存症の問題を、ネガティブからポジティブに裏返す力は、おのれ一人の自力ではありえず、家族の力だけでも実現できず、医療や介助者だけでも無理で、それらの人知人力をすべて合わせても、とうてい人為的に為しえることではない。ゆえに、そこに人間の力の総和を超えた大いなる力が働いたと推測するしかない。

 自助団体でいう「神」「ハイヤーパワー」とは、そういう不思議な現実を起こし続ける力に対する、かりそめの名前であると考えている。

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by ecdysis | 2019-06-24 00:41 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

 交際していた女性と別れにいたる問題が起こったとき、多くの場面で、私は彼女らが彼女らではなく、彼女らの母親が乗り移って、私のことを怒り罵り軽侮していると感じることが何回かあった。彼女らが、私に身の上話をしてくれたときの彼女らの母親の姿を彷彿とさせる態度と声音だったからだ。

 彼女らは、無自覚だったと思うが、私はなんだか、本当の彼女ではなく、彼女の母親と対面しているような気がして、とても悲しかった。
 別れの言葉をいっているのは、素顔の彼女ではなく、彼女の母親であるという感覚は、思い返しても悲しい。
 私の知っているきみは、いったいどこへいってしまったんだろうか・・・そう思いながら、別れるしかなかった。
 思い返せば、もしかしたら私の方も彼女らに、私の父親と同じ問題点をあらわにして「お父さんそっくりじゃないの」と思わせたかもしれない。

 いずれにせよ、 わが愛欲・恋愛・結婚への妄想は、虚しい結果だけの執着・煩悩にすぎなかった。不毛であわれでいたましい経験を積み重ねさせただけだった。煩悩の体験は、煩悩とそれを基本にした言葉と行動と考え方すべてが、虚しく悲しく苦痛な結果しか生み出さない。そして、最終的にそこから離れるべきであるということだけを教えた。

 煩悩をもとにした生き方は、それを自覚しないとしても、水晶かダイヤモンドの塊と信じて、氷の塊を抱き続けるようなものだ。冷たくなるしびしょびしょになるし小さくなって、やがては消えてしまう。
 その冷たさと濡れ方と消えてしまうことに、どれほどの痛みと苦しみと悲しみを覚えたことか。
 一度の経験で、これは貴石ではなくただの氷だと気づけばいいが、たいていは、また別の氷を宝石と信じて手に入れて、同じことを繰り返す。

 これは水晶でもダイヤでもなくただの氷で、抱きしめて身に着けているべきものではないと気づくまで、喪失の辛さは繰り返される。冷たさと濡れねずみに弱り、氷の塊が縮小してなくなる苦痛と悲嘆と傷心を繰り返すほかはない。私も40年間そうだった。
 価値あるものと信じて価値なきものに執着させるのが、煩悩であり幻想であり妄想である。別の言葉でいうと「生き方の病」、あるいは仏教にいう「迷いの生存」ということだ。

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by ecdysis | 2019-06-23 23:39 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)