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 母親からの虐待や祖母・祖父への恐怖や幼稚園でのいじめで、小学校低学年のころまでの私にとって、世界は恐怖そのものだった。出口のないお化け屋敷にいるようなもので、すでに幼児性の抑うつを発症していたとわかる。

 そんな中で、私が安心してかかわれる相手は、3歳下の妹だけだった。妹という自分より弱い相手とかかわるときのみ、安心できるという人間関係の構図が、すでにそのときつくられたのだとわかる。

 六歳のとき、父母と妹と四人で県内の港町に引っ越しアパート暮らしをはじめた。父は首都圏に出稼ぎにでかけて、母子で三人暮らしだった。そのころ、兄だからという理由で、妹の面倒をみるよう言われて、母が私たち兄妹だけを残してひとりで買い物にでかけて、私はひどい孤立感を味わった。あのときは母が帰ってくるのを待ちかねて、妹の手をひいて母をさがして外に出て、迷子になって大泣きした。近所の見知らぬおじさんおばさんに助けられて、あとで母に引き合わせてくれたからよかったものの、幼い子供二人をおいてひとりで買い物へいくかねと、今の私なら当時の母に文句をいいたいところである。その後、やはり子供時代に妹と二人で孤立感を味わう場面があり、私は自分が寂しいときに、自分が面倒をみるべき弱い立場の相手と一緒にいるというシチュエーションに適応してしまったのだろう。

 こうした自分の「自分より弱いものへの傾倒」は、大人になると「自分より弱いものに引きつけられる」というACの特徴となって現れるのを自覚した。脳内に、トラウマと恐怖と有力感の回路ができてしまったのだ。

 私は、病的な女性とばかりかかわってきたと何度か書いてきたが、それもそのはずで、すでにアルコール依存を発症するほどのACである私が、「安心できる自分より弱い相手」を選ぶとすれば、それは「自分よりも重症のACの女性」しかいないではないか。
 すなわち、私の異性関係の基本は、この「自分より弱い相手に安心を感じる」という感覚そのものに問題があると見えてきた。
 これは、別の言い方をすれば「自分の方が優位である場合に安心感を覚える」という「相手への有力感」にほかならない。つまり、「相手への有力感」と「安心感」がイコールで結ばれているのは、不健康なことなのだとわかる。

 なぜなら、本当の安心感は、自他の比較の必要はなく、自分が無力で弱くても大丈夫であるという、他に自分を全面的にゆだねている気持を基本とするからだ。
「自分の方が優位でなければ安心できない」というのは、本当の安心感ではない。それは条件付きの安心感であるがために、決して身も心もリラックスできる安心感には至れない。
 大切なのは「自他の優劣」という比較競争ではなく、「自他の平等対等」という家族内で体験すべきだった健康な関係性なのだ。
 私はアルコール依存の自助団体に通い、そこの人々とつきあいを続けることで、「対等な人間関係」を初めて実感するようになった。

 自分より弱いものに安心を感じるということは、逆に自分と対等か優れた相手には、恐れと不安を感じるということだ。それが、対等か自分より優れた相手への嫉妬や非難や中傷や攻撃などに変形された悪意として発現する。しかし、その場合、わたしもそうだが、恐怖を感じる相手への恐怖を自覚することはほとんどない。ただ、恐怖は、その相手への過敏な非難や嫉妬やネガティブな評価という感情で現れる。しかも、その非難・嫉妬・否定的評価が、内なる子供の恐怖が変形して現れているという自覚もほとんどない。

 さらに、その内なる子供の恐怖は、あくまで主観によるもので、客観的に恐怖すべきものかどうかは問題ではない。内なる子供が「こわい。いじめられる。痛めつけられる」という脅威を感じたら、もうそこで恐怖による感情行動が発動してしまう。

 深刻な恐怖に打ちのめされた子供の私は、「自分より劣ったもの相手なら安心である」という体験によって、自分から見て自分の方が優れていると思う相手ばかりを友人に選んだ。一時期、近所の友達が全員女子だったこともあるほどだ。

 その一方で自分が有力になっていく方法を探した。自分が有力になれば、その分、自分より劣った相手の数が増える。それは、自分にとっての安全圏の拡大を意味し、安全圏の拡大は恐怖を遠ざけることになる。

 相手より優位に立つ方法は、私の場合は学校の成績をよくすることだった。恐怖から逃れるために、学校の図書室で貸し出す本の読書を好んだ。その結果、知識が増えて、ほかの児童生徒より理科や社会のテストの結果がよくなり、有力感が増したため授業でも積極的に手を上げるようになり、教諭の覚えもめでたくなり、私の学校での安全圏拡大はひとまずうまくいったけれど、家に帰れば相変わらず、そこは恐怖と脅えに支配された場所でしかなかった。むしろ、学校で安全圏が拡大するのと反比例して、家庭の状況は悪化していった。

 いわゆる「家ではいい子、学校では優等生であること」が唯一の保身だった。しかし、高校が進学校だったため、私はもはや優等生ではいられなくなった。私を支える「安全圏」が消失した。私は、もはや自分には価値がないと感じ、ひどい劣等感にさいなまれ、優等生であることで否認してきた自分の生い立ちのひどさを見ざるをえなくなり、16歳のときにフラッシュバックが起こって精神的に壊滅状態になった。その先にアルコールが手をのばせばすぐそこにあり、母と同じく生きる苦しみを泥酔することによってまぎらわせ麻痺させることを覚えた。

 私の短気ないらだちや怒りっぽさや妬み深さも、「恐怖」が関与している。アルコール依存症の症状であると同時に、それは同じ病気だった祖父の心であり、粗暴で理不尽な言動を重ねた人格障害の祖母の心でもあったと気づく。
 これは、とても生きづらく苦しい感情生活だ。ささいな他人の言動に責めと裁きの憤りを発し、自分よりすぐれた言動や業績をあげている人間を見ると、むらむらと妬みの心が湧いて不愉快になる。心の狭さというものは、他人を不愉快にさせるのはもちろん、本人にとっても苦しみでしかない。心の狭い人は、その心の狭さによって本人がいちばん苦しんでいるのだ。

 釈迦やキリストの教えや神道・儒教の学びをする一方で、こうした幼児的で病的な感情に苦しめられる。これは、私が祖父母におびえ恐れ苦しめられた生い立ちのうちに、彼らから刷り込まれ、また無自覚のうちに学んで習得してきたことだとわかる。

 つまり、私は心の病み方も傷つき方も、心の狂い方も、祖父母から学んだということだ。

 その学んだ心の病み方の根底にあるのは、「恐れ」だ。屈辱を受けること、排斥されること、孤立させられること、笑い物になること、挽回しようのないどん底の恥のただ中に置かれること、責めと裁きに追いつめられること。それらを何よりも恐れていたことがわかる。
 それらの「恐れ」は、実はアルコール依存症の祖父が、酔って自分の住む村落と近隣の人々に迷惑をかけた結果、こうむった非難と蔑視の経験のはずである。根拠も理由もなく、責めや裁きを健康な人々が下すことはない。

 祖父がアルコール依存症になったのは、親である曾祖父が酔って日本刀をふりまわす酒乱だったことにある。その幼児期の救いようのない強烈な恐怖のトラウマ体験があったからだと推測できる。自分の生存が極度に脅かされるという恐怖の体験がトラウマとなり、そこからアルコール依存症や、十五歳ごろから売春宿に入り浸るなど性依存症に陥ったと考えられる。アルコール依存のあげく三十三歳で死んだ私の弟も、父親を極度に恐れ憎んだまま死んでいった。
 祖父も、トラウマと依存症が発症して進行するプロセスで祖母と結婚し、五人の子を育てなければならなかったのだから、そのストレスは筆舌に尽くしがたかっただろう。

 人間として非常に不健康な人格形成をおこない、心の病気を発症している祖父のような男が、ちゃんとした家庭を営むのは無理だ。あるいは、私の父親は明らかな発達障害なので、祖父もそうだったのかもしれない。

 ゆえに、私の怒りや妬みの問題は、実は私自身のみならず、親や祖父母たちにもあった問題であるとみなせる。
 人は対等な会話においてこそ孤独を癒す。対等でない支配・被支配の関係は孤独しか生まない。アルコール依存症による典型的な症状である自我肥大は、孤独感・孤立感を産んで、ひとつもいいことはない。加えて、特有の「わたしは正しい、みんな従え」という気持ちも救いようのない孤独を生む。曾祖父も祖父も父も母も弟も私も叔父叔母も、全員がその「酔いの孤独感」に打ちのめされて死んでいったのだ。

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# by ecdysis | 2019-02-09 00:32 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

渇愛はACの自分の源

 渇愛という欲愛は、前世からひきずる足枷の鎖玉のようなもので、まさに煩悩具足の凡夫たる私自身の正直な姿です。
 生まれてから、この鎖玉をはずしたことが一度もありません。五官に感じる名前と形のあるものに強く依存し、渇愛の奴隷として生きるのが当たり前だったので、解放奴隷の自由人になれたことも一度もないのです。

 私は、解放されたい。カルマの煩悩から、渇愛の奴隷状態から解放されたい。

 必要だったのは安心できる安全な時と場でした。今の私には、その場があるし作り得ます。座禅によって、神社と神棚への礼拝奏上によって、安心安全な自分の居場所を確認できます。内省がそれを可能にしました。

 そうなりはじめてから今にいたるまで、十数年かかっています。それでもまだ穢れを愛し求め、穢れを楽しみ欲望する自分がいます。卑猥で幼稚で卑怯かつ盲目な欲情にすがりついている自分です。それが「渇愛」というものであることを、最近学んだばかりです。

 渇愛と知らずに依存していた。そうせずには生きのびられないほど、過酷な家庭環境でした。家庭や職場や恋愛や知人関係など、現実の人間関係の与えるストレスが過重でした。
 その過重さを緩和しリラックスさせる息抜きやストレス解消の手段が酒や自慰などへの依存でした。恋愛感情への依存は、過重な責任や仕事でふんばるためのものでした。自分で自分を励まし、義務と責任をまっとうさせる励みだったのです。
 祈りと座禅を両立させるまでは、日々のストレス解消の手段は、依存のほかにはありませんでした。

 神道の教えと、座禅と仏教の素晴らしさを知らずに生きていた時代の苦しみたるや筆舌につくしがたい。アダルトチャイルドということばだけで到底くくれるものではありません。

 とにかく、渇愛を自覚できず、苦を苦と認識できませんでた。苦のもとを苦のもとと自覚できず、安楽や快感のもとだと思いこんでいました。だから、「一切が皆、苦である」という法印が理解しにくかったのです。そのときは、快楽で愉悦であっても、時間がたてば同じ楽しみが二度と来ないことを知り、求めても得られず戻ってこないことを思い知る苦しみになります。これを「壊苦(えく)」というそうです。

 しかし、自分と他者、あるいは他者どうしの間での出来事の多くは、苦しみや悲しみに終わることが多いです。貪り、怒り、高慢、愚かさに加え、恐れ、憂い、嘆き、悩み、妬みのともなわない人間関係を、人はどれだけ持ち得るでしょうか。
 もちろん、喜びや楽しみの多い関係もあります。しかし、それも毎回、いつでもというわけにはいきません。楽しい思い出という記憶にはめぐまれても、必ず互いの老・病・死の苦痛と悲しみがやってきます。

 ストレスが強まると、何かとみだらなものでまぎらわせようという想いがわき、パソコンの淫猥なサイトの画像を見てしまいます。すれちがう女性たちに押さえつけている欲情の炭火が熾きます。煩悩の焔と簡単に表現して済むものではないのです。
 これが、私が穢れを欲し穢れを愛している証拠です。欲愛の炭火が燃えています。それを消火しなければ霊的平安はありません。涅槃(「ニルヴァーナ」)とは「吹き消す」という原義だそうです。煩悩の火を消してしまい灰にしてしまうのが涅槃なる悟りの境地なのでしょう。

 雑念妄念は、盲目の欲望たる渇愛より起こります。ものごとに集中しているとき以外、雑念と妄念は絶えず起こります。しかし、雑念は善でも悪でもありません。生きていれば必ずあるものなので、それを裁いたり自己嫌悪したり否認したりは意味がありません。それは、大小便の排泄欲求と同じようなものです。頭でいくら否定しても、あるものはあるし排泄しない限り楽にはならないのといっしょです。善悪や理非曲直などの価値観・判断の対象ではありません。

 雑念妄念やとらわれは、自分の心に関する無知、すなわち無明によるといえますが、無明とは、言い換えれば「闇」「盲目」ということです。盲目で生きていれば、手をひいて導いてくれる人や杖を信じなければ怖くて一歩も歩めません。聖人賢哲こそ、盲目な私の導き手であり、その知恵の言葉が糧です。

 私も人も、みな現在の姿は、いくつもの過去世で経験してきたことと、現世の過去との集大成であると思うようになりました。長所も短所も善も悪も努力も怠惰も今の自分は、現世だけが原因ではないと。何回もの前世のすべての集大成が今の自分なのだから、なりたくてなった姿でもあるし、なりたいと思わずとも、なってしまった姿でもあります。
 いくつもの過去世の人生で体験した愛憎も好悪も快苦も悲喜も努力も挫折も憧れも失意も有頂天も落胆も、すべての生活経験と情緒的経験の集大成が、今の自分なのだと思えば受け入れざるをえません。釈尊の教えに従えば、そういうことになります。

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ガンジス河



# by ecdysis | 2019-02-04 02:03 | スピリチュアル | Trackback | Comments(0)

 お釈迦様は、原始仏典『スッタニパータ』(集成経)の中で、まったき平安の境地である涅槃(ニルヴァーナ)に至るには、「快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ること」をせねばならないと説いています(学生ヘーマカの質問1086節)。

 しかし、これがとても難しい。私は、そもそも「出口も終わりもないお化け屋敷」同然の恐怖の家に育たざるをえませんでした。私のような人間には、「快美な事物」に逃避することでしか生き延びてこられなかったのですから、それを手放すのは恐ろしい難関です。

 ACとアルコール依存と精神障害の家族の中で育った私は、「無明」と「渇愛」という言葉も知らず、自覚もせずに育ちました。そんな私には、欲望しか喜ぶものがありませんでした。情欲しか快楽を感じるものがなかったのです。生い立ちのひどい家庭の中で、喜びといえるようなものは、好奇心を満たす知識や情報、小説やマンガやアニメ以外には、情緒的に貧しい欲望とその快楽しかありませんでした。卑しくとも醜くてもみっともなくても、それしかなかったのです。

 田舎の知り合いの高齢の人の思い出話の中には、家がとても貧しくて子供のころにおやつもお小遣いもなかったので、おなかがすくと台所の親の酒をおやつがわりに飲んで酔っ払っていたというのがありましたが、それと同じぐらい痛々しい話です。

 欲望が強まると、時と場所を問わずに、過去に女性とまじわった時の、みだらで恥ずかしい、汚ない妄想がわきます。これは、欲望が穢れを求める気持ちになって現れているからです。すなわち、欲望とは、穢れを生み穢れを愛する穢れの親、穢れを好み穢れに親しむ、穢れの兄弟です。

 私は、この57年間を渇愛の奴隷として生きてきたのに気づきませんでした。渇愛の特徴である「欲望を感じることを喜び気に入っていた」からですし、「欲望は感じてあたりまえ」と思っていたからです。情欲についても、欲望と欲求を感じて満たそうとするのは当たり前と思っていました。だから、欲望こそが人生の苦の原因で、人をつらくかなしい人生へ輪廻転生させる原因だと教えられて愕然としています。

 貪りとその対象を愛する、欲望とその満足を愛するという以外の「生きがい」を見出せるかどうか。愛着してきた欲望を「もういらない」と手放せるかどうか。それがアルコールであれ、薬物であれ、ギャンブルや万引きやセックスであれ、「快美な事物」に依存することなく生きられるかどうかが今後の鍵です。

 これまでは「とにかく死なずに生き延びる」ための自己流・我流の恐怖からの回避術・逃避術を用いてきた生き方でした。生きられるかどうかの判断基準は、「自分にとって快感かどうか」だけでした。自分が生きていられるかどうかの目安は、快感があるかどうかだけでした。肉体や自我の快楽は善であり、喜びであり、生きていていいというサインであり、愛されているという証であり、安全であるという目印でした。

 しかし、現実には必ずしも、その我流の快感リトマス紙は的確ではありませんでした。むしろ、はじめは快楽なのに、次第に有害な依存に変じた飲酒の習慣のように、「有害な快楽」もたくさんあって、相当に痛めつけられましたし、自分で自分を痛めつけて来ました。
 これからは、「健全に生きのびる」ための方法を身につけなくてはなりません。

 私は、渇愛を下着のように、いつも肌につけて、なくてはならぬもののように生きてきたようです。何枚もの欲望という名の下着をはきかえて、くりかえし着用してきたのです。しかし、古今の聖人賢者たちと釈迦の教えによって、それに気づいてしまった以上、その何百何千枚という汚れたままの下着を、少しずつでも時間をかけて捨てねばならないようです。

「わたしたちは皆、汚れた者となり 正しい業もすべて汚れた着物のようになった」(旧約聖書 イザヤ書 64章5節)
(「汚れた」とは「悪臭ふんぷんたるまでに汚れ切った」ということ。「正しい業[わざ]」とは「正しいと信じ込んでなしてきた所業」のこと。「着物」は下着や肌着のこと)

 健全な生き方とはどういうことか、どうすれば正常に生きられるのかということについて、私は無知のまま生きてきました。
 その「生き方の無知」から自分を脱出させ、新しい清潔な下着をつける方法のひとつに、八正道・中道というものがあることを教えられました。どのようにするかは試行錯誤が続きますが、禅定によって祈りによって、さまざまな聖賢の教えによって、一枚一枚を履き替えながら生きていこうと思います。

 そのためには、死ぬまで、いえ死んだ後まで時間がかかるでしょうけれど、それは仕方のないことです。
 新しい生き方は、夜があけて朝を迎えるような目覚ましいもののようには感じられませんが、いつか気づいたら変わっていたというような認識しか、たぶん訪れないと思います。それでも、意識だけはしておきましょう。

 儒教の『大学』第二章三節にも、古代中国の祭祀用の水盤に次のような言葉が鋳込まれていたとあります。

「まことに日に新たに、日々に新たに、また日に新たなれ」
(現代語:いったんまったく新しくなったなら、その日から、毎日新しく、たえず毎日新しく生きよ)

 イエスの言葉にも『ヨハネによる福音書』(第3章3節)にこうあります。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」
(この「はっきり言っておく」は原語では「アーメン」。「誓って嘘いつわりなく宣言する」の意味)

 渇愛が、苦の人生・生まれ変わりの人生という「家」をつくる大工であり材料だと釈迦はいいます。その渇愛を自覚したとき、初めて人は「苦の家」をつくる者を見つけ、その家の柱や壁や材木をこわすことができると。もう、そんな「苦の家」に住む必要がなくなります。つまり、もう苦しみと試練に満ちたこの現世に生まれることがなくなるというのです。それが「解脱」「悟り」だといいます。

 私にとっては「悟り」=「神の国」という認識なので、キリスト教と仏教は「同じものを目指している」と信じています。

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# by ecdysis | 2019-01-28 02:28 | Trackback | Comments(0)

 渇愛について、重複になりますが、非常に重要だと考えますので、再度、よりくわしく書いておきたいと思います。
 釈迦の話した原初の説法に近いといわれる経典は、古代インドのパーリ語で書かれたものだといいます。いわゆる南伝または上座部(テーラワーダ)あるいは小乗と呼ばれる流れの仏教の経典です。その中に「渇愛」とその解決法について釈迦が詳しく説いたくだりの経典があります。

 仏教では「初転法輪経(しょてんぽうりんきょう)」と呼ばれ、初転法輪とは、悟りを開いて最初に五人の弟子に説法し教えた内容のことです。
 釈迦の説法による「森羅万象の普遍の法」の開示は、法輪と呼ばれます。釈迦の法は、あたかも天界の王・帝釈天の乗る車の車輪のように、教えの車が他の土地の人々に走り転がって広がり、あるいは弟子や子孫に転がって教えを轍のように残して伝わるとしたものです。

 ちなみに、釈迦が悟りを開いた菩提樹の場所と、初説法しようと決めたかつての同行者たる五人の修行者たちとの間は250キロも離れていたといいます(『仏教百話』増谷文雄/ちくま文庫より)。現代の日本にあてはめると、東京から出たとして、西は浜松、北は福島あたりまでの距離です。現在のような通信手段のない時代に、釈迦がどうやって五人の居場所を知ったか、霊覚としかいいようがありませんが、とにかく250キロをてくてく歩いてお釈迦様が悟りの初の教えを授けにおもむかれたというのは、まことに感動的です。

 この釈迦の最初の説法を、法輪を初めて転がしたという意味で「初転法輪」と名付けています。
 その中に「渇愛」が「苦」の原因であると最初から説かれています。その「渇愛」(「愛欲」や「妄執」と訳すものもあります)は、次の意味と特徴を持つといいます。

「渇愛」は、パーリ語で「タンハー」といいますが、これは「渇き」「満たされない」「欲しがる」の原義を持つ言葉だそうです。欲求・欲望・要求・充足への願望をかねた言葉だそうです。

 すなわち、自分が欲望・欲求・願望を持つことを、あたかも渇いたものが水を欲しがるように愛してやまないから「渇愛」と表現しているのです。「渇きの状態を愛している」「欲望のある状態を好んでいる」ということのようです。私なりには「無自覚な強欲」と名付けたいところです。私は「渇愛の奴隷」であることが見えてきました。外見はいかであれ、みな各自の我欲(渇愛)と霊的・求道的な事柄についての無知(無明)の奴隷なのでしょう、

 自分中心の欲望・願望・要求は、渇愛ですが、それには三つの特徴があるといいます。
 ひとつは、渇きを愛するという状態は、欲望・欲求・願望が、水面に湧く泡のように、次々と個人の心にいくつも新しく生まれ、またくりかえしくりかえし起こって終わりがないということです。あれがほしい、これがほしい、ああなりたい、こうなりたい、こうしたい、ああしたい、こうであればいい、自分の思うとおりにしたい・・・などなどの想いは、すべて「渇愛」です。文字通り、渇きは水を飲めばいったんは収まりますが、また時間がたてば渇きがやってきます。渇きは毎日やってきて、しかも生きている限りとぎれることがありませんし飽きることもありません。そんな渇きと水を愛してやまないように、繰り返される欲望を愛してやまず飽きないのが渇愛の特徴です。

 二つには、欲望・欲求・願望を満たすことに喜びと快楽を覚え、足るを知らないことも渇愛です。さかのぼれば、欲望・欲求・願望を抱き感じる状態そのものに、喜びを覚え楽しみ愛していることになります。欲望を感じて、それが満たされない状態は、もともと苦しいことのはずです。それなのに、その苦しみは、欲望が満たされたときに味わうだろう喜びの予想と期待で麻痺させられてしまいます。そして、「どうしてもほしい」「こうであるべきだ」「なんとしても想う通りにしたい」という執着に変わってゆきます。アルコールや薬物やギャンブルなどの依存症は、まさにこの渇愛の特徴が病的に強化されて発現していると言えます。

 三つ目は、自分の欲望・欲求・願望の質と量に関係なく、それを喜び、そのひとつひとつを気に入り、自分にとって大事であると信じるのが渇愛です。また、そのような、快楽を求める自分を喜ばしい大切なものと思っています。
 つまり、人は苦の原因とも知らずに、自分の渇愛を喜び気に入り、楽しみ快楽を覚えて、限りなくさまざまな欲望・欲求・願望を抱き続け、生みだしながら生きていることになります。

 この渇愛は、また以下の三つの欲望として、それぞれに、あるいは三つ同時に、日常的に絶え間なく切り目なく現れます。
 ひとつは、五感の欲です。眼耳鼻舌身の欲です。自分の見るもの聞くもの嗅ぐもの味わうもの触るものにおいて、刺激を受け続け、快楽を覚え続けたいという欲求です。

 これは、直接に肉体に関することだけではありません。いい衣食住を手に入れたい、名誉名声を得たいなども、これらの欲求に含まれます。なぜなら、名誉欲・名声欲には、人々の羨み賞賛する顔を見たいという眼の欲、人々の賞賛する声を聞きたいという耳の欲がともなうからです。また、仏教では人に共通の欲望を「五欲」(食欲・性欲・金銭欲・名誉欲・睡眠欲)としていますが、それもふくまれます。この「五欲」は生きて家庭や社会を維持するのに不可欠ですが、適切な程度を超えると人を病ませるものとなります。

 ふたつめは、生存欲。生きたいという欲。自分の生きやすい都合のいい条件を獲得したいという欲です。「自分さえ生きられればよい」「自分さえよければよい」という欲。

 みっつめは、破壊欲と訳されていますが、私は排除欲・排他欲とみなすのがよいのではないかと思います。
 自分の生存を脅かすものは排除して滅ぼしたい欲。転じて、嫌いなものや厭なものを排斥して無いものにしたい欲。自分の思うとおりにならない人や事や物を消してしまいたい欲。この欲が強まって自分に向けられると自殺になるといいます。都合の悪いことは無かったことにしたい否認・否定の欲望です。

 私の場合、情欲を、渇愛の現れと認識し、格闘しています。格闘して情欲そのものを喜ぶ自分を自覚し、一時的にでも退けると、そのときだけですが、そこから名状しがたい深い悲しみのもやのようなものが、自分の中に沸き起こってきました。
 私の渇愛の向こう、渇愛の層の下には悲しみがあると気づきました。何か魂の悲しみのような、静かだが確かに深くきりのない悲哀が湧いてくるのです。

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# by ecdysis | 2019-01-28 02:20 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

 生きる上での苦しみを「煩悩」といいますが、これは釈迦の教えでは「無明」と「渇愛(愛欲/渇望ともいう)」の二大原因によるといいます。
「無明」とは、道徳・倫理・神仏・聖なる原理への無知・無自覚・無視のまま生きる状態です。「渇愛」は、欲望・愛欲・執着・むさぼり・偏愛を持つこととそれを疑うこともなく楽しみ期待する生き方です。

 この二つの煩悩の素を野放しにしている状態を、仏教では「放逸」といい、「修行を怠り怠けること」をも意味します。 
 この「無明」と「渇愛」は、人として生きる上でだれもが避けられない大変な問題であり、放置すれば、あらゆる人間が心身を病んで狂ってしまうとわかります。逆に「無明」と「渇愛」をなくせば、あらゆる人間が悟りを得られるといいます。釈尊(お釈迦様を尊んでいう言い方)の言葉を学んでいくと、そういうことになるようです。

 これを自分と、生まれた家庭にあてはめてみましょう。私の生家は、道徳的・倫理的・情緒的に無惨で惑乱したものでした。私が、ひどいACになったのも、各家族の「無明」と「渇愛」がまったく自覚もされず、野放しにされて、正しく修正されることがなかったからだと分かります。

 特に「渇愛」の問題は、非常に大きいものがあります。

「渇愛(タンハー)」とは「愛着と愛執の対象に激しく渇く」という意味で、「刺激に渇く」ともいえるでしょう。欲望と貪りの根源です。サンスクリット原語では「願い・欲望」の意味もあるといいます。「渇愛」は「無明(トリシュナ)」を原因とし、両者はわかちがたく絡み合っています。「渇愛と無明」が、この現世の人々に、煩悩をあまた生み続け、輪廻転生を繰り返させるというのです。この世の一切の現象が、そもそも苦(ドゥッカ=迷い)の原因・結果・連鎖以外のなにものでもないからです。

「渇愛」について釈迦は、悟ってから最初の説法の時(初転法輪)より、詳説しています。
 それには「五欲の渇愛」「生存欲の渇愛」「排他欲の渇愛」の三種があるといいます。すなわち、「目耳鼻舌触の五つの肉体欲の渇愛」「生きたいという生存欲の渇愛」「気に入らないものは排除したいという渇愛」ということになります。排他欲の中には、自分の思うとおりにならないものは見たくない、破壊したいという欲も含まれ、これを自分に向けると自殺になるといいます。
 しかも、渇愛は全体として、五感や生存欲や排他欲に関して、喜びと快楽を感じることが特徴だといいます。その特徴こそ、渇愛の証拠だと釈迦は説いたとのことです。そして、それらが執着となり、苦の原因となり、この悩み苦しみのやむことのない現世に、繰り返し輪廻転生させる因縁となると説きました。
 ならば、私がこの世で執着し楽しみとし愛着して手放すまいとしたものごと自体が、苦の原因ということになります。

 仏教では、苦を三種類(三苦)に分ける説があります。ひとつは、苦痛苦悩そのものである「苦苦(くく)」、一時的な喜びや快楽はあるが、それが永続せず終わってしまい戻ってこないことを憂い苦しむ「壊苦(えく)」、自分の心身・言動・環境のすべてが変わってゆき元には戻せないことを憂い苦しむ「行苦(ぎょうく)」の三つです。
 生きる苦痛を忘れ、幸福と満足を得るために是が非でも手に入れたいと願望したことこそが、現世で苦しみをつくりだし、なおかつ、来世もこの世に、今回と同様の悲惨な家庭環境に私の魂を生まれさせる原因となるということです。
 つまり、現世で自分に都合のいい、自分の思う通りになる出来事や生き方に、喜びと快楽を覚え、それの追求と実現に執着すればするほど渇愛が深くなるのです。思う通りにならないのが当たり前のこの世では、思うとおりにしたい、願った通りになれと念じれば念じるほど、あらゆることに苦しみが増え、来世もまた同様の思うとおりにならない苦しみを強く感じる人生を送らねばならなくなるというのです。

 自己中心を動機とする快楽、好み、愛好、嗜好、苦痛、嫌悪、排他心、怒りは、無常による変化を受け入れられない無知である「無明」から起こります。好み愛するものといえども、みな思う通りに続かず終わり、また変わってしまいます。嫌いな厭(いや)なものも絶えず現れるので、苦しみを生みます。好きなものは好きなもので、嫌いなものは嫌いなもので、どちらも100%思うとおりにはなりません。それによる不満や怒りや憎悪や恨みや苛立ち、悲しみ苦しみが、来世に生まれ変わらせる原動力となります。それがカルマです。
 つまり、私が激しく恋人を求め幸福な性交と結婚を念願したことについていえば、それが実現してもしなくても、どちらも来世に同じような苦しい人生が待っていることになります。
 今世、その願望を手放さないで、実現できなかったとすれば、それを恨み呪って自分の運命を憎んだまま死ぬことになるとします。その未練と恨みが、来世に同じ試練を与える人生に生まれ変わらせます。反対に、理想の恋愛や結婚ができたとしたら、今度はそれに溺れ、妻子に執着し、とらわれて支配しようとし、想うとおりにならない苦しみを味わい、こんなはずではなかったと恨み、愛する家族のゆえに嘆き悲しみ怒ることにもなります。そうした嘆きと怒りをもったまま死ねば、やはり来世は今世同様の苦しい試練を味わう人生に生まれ変わることになります。

 この順逆両方の快楽も苦痛も、念願への執着ごと捨て去って、強く念願することも恨むこともない、「中道」を歩まなければ、どちらにいっても苦しい試練の待つ来世に生まれ変わることになります。
 渇愛から離れるには、「中道」を正しく歩み身につけるしかないといいます。そうしなければ、またまた苦しい肉体人間の現世を歩まねばならない。

 前世・現世・来世の三世の視野でみるならば、愛して好んで喜びを覚えたものでさえ、執着となって苦をうみ、その苦がまた次の苦の輪廻の人生を生む構造があります。
 まことに「一切皆苦(この世のあらゆる現象は苦であり苦の原因)」です。「一切渇愛」と読み替えれば、まさにその通りで泣きたくなります。
 
「わが思う通りであれ」と願い念じる執着を手放さなければ、魂の平安は永久にやってはこないのでしょう。「わが意志ではなく、神・仏の御意志の通りであれ」と願い念じることが「中道」の一つの表現です。
 つまり、今の私の人生は、自身のもろもろの前世の渇愛の結果にほかなりません。私だけではない、いまどのようであっても、現世の万人がそうです。だれの人生も、今の自分はそれぞれの過去世の渇愛の集大成を生きています。
 そして私は思います。渇愛を止めたりへらしたりするのは「利他の心・ことば・おこない」であると。布施(心身言動をもって与え奉仕する)・利生(他を生かす)の心と行いこそ、渇愛を止め心の闇である無明を照らすと。

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# by ecdysis | 2019-01-21 00:18 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

神さま
どうかこのクリスマスの夜に
泣いている子供たちが幸せになれるよう
飢えて震えている子供たちが安らかに暮らせるよう
祈らせてください。
かつて不幸せなクリスマスと悲惨な正月しか
経験できない子供だった私と同じく
不幸せなクリスマスと正月しか与えられない子供たちが
心から楽しく笑える日が一日も早く来ますように。

大人になっても
クリスマスに泣いている子供だった
お正月におびえて震えている子供だった
そんな子供を心に抱えて
傷ついたまま大人になって
いまも苦しんでいる人たちに
私は心から共感の祈りをささげる
私はあなたがたと同じ子供だった。
私たちの内なる子供が笑顔になって
心から幸せだといえる日が来ますように。

今宵、あなたがたの内なる子供と
私の中の子供がハンドリングして
涙にぬれた目で唇をひきむすんで
決心しよう
ぜったいにしあわせになるんだ
ぜったいにしあわせになるんだ

クリスマスも正月もいらないように
いつでもしあわせでいられるように



# by ecdysis | 2018-12-25 00:28 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

 私にとって、恋愛は刺激と快楽と挫折感と別離の痛みとデート代もままならないカネの心配で、いつも占められていた。カネがあれば、生活不安がある程度解決されていれば、とっくに結婚していたはずだ。

 刺激と快楽とカネの心配とで私の恋愛はいつも彩られていたが、そこに安らぎも落ち着きも、ついぞ降り立つことはなかった。愛する人を思い出して刺激を受けて自分を鼓舞して励みにすることはたくさんあったが、その人のことを考えることで落ち着きや安心を得ることはなかった。相手の女性に、カネの心配をさせないように、ちゃんとした社会人になりたかったが、それもできずじまいだった。

 父が会社を倒産させて、母や私たちを借金で苦しめたようなことだけは、相手に味わわせるまいと願ったが、それも実現できなかった。
 妻となる人に、経済的に苦労させてはならないという責任感は強かったが、原家族へのとらわれも強すぎて、現実の経済能力が追いつかなかった。

 自分は、現実社会での経済能力において、ダメな男だと心痛をいつもかかえていた。母が父のつくった借金で苦しむ姿を、私は見すぎていた。妻となる人よりも、まず母と弟のためにカネを稼がねばならなかった。その共依存による経済的消耗と精神的疲労がどれほど重圧だったかは、断酒してうつ病になったことからもわかる。

 いまになって、途方もなく無理をしたと思う。

 あげくに、弟も母も先に逝ってしまった。私は、一番助けたかった家族を助けられなかった。少なくとも、現世的には無理だった。

 ゆえにこそ、彼らが死後の霊人になってからの冥福を祈り、自分なりの追善供養を日々おこなっている。
 人の霊魂は永遠不滅なのだから、先に死んだからといって、彼らが死後もずっと不幸なままということはない。地道にささやかでも追善供養を積み重ねていけば、彼らが今度生まれかわってくるときには、はるかにましな環境に生を享けられるはずだと信じる。

 変えられない死という事実を、いつまでも悲しみ嘆くだけでは、自己憐憫にひたって自分を傷つけるのと一緒だ。だからこそ、日々、仏壇にお茶や水をお供えし、お線香を立て、お彼岸やお盆には手料理や菓子果物・花をお供えする追善供養を絶やさないようにしている。他者への小さな親切や、道端のゴミを拾うようなささやかな善行を絶やさないことも大事な供養である。

 そして、母や弟よりももっと不幸で見捨てられて死んだ無縁仏の諸霊にも、量は少ないが同じように毎日のように供養の茶と水と食物を捧げている。

 それら無縁仏の中には、かなりの高率でACやアルコール依存症だった人々がいるはずだ。はるかな昔から、それこそ何千何万という数かもしれない。その一部なりとも供養してさしあげることで、母と弟の供養、また祖父母やそれより前の祖先たちの霊の供養もできると信じている。

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# by ecdysis | 2018-11-16 02:42 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(1)

 4月1日から4月2日の深夜にかけて起こったこと。

 キリスト研究のための資料として、シェモネ・エスレ(十八祈祷・アミダーの祈り)の日本語訳を読んだら、第一項目を目にしたとたんに感動が突き上げてきて、声をあげて泣いてしまった。
 そして、2千年前にキリストがガリラヤ湖のほとりで一人で祈っていたのは、ユダヤ人が一日に三度唱えるというこの祈りに違いないと感じた。ユダヤ人が日常的に唱える、旧約聖書「申命記」の祈り(シェマの祈り)といい「シェモネ・エスレ」という、すごい祈りの言葉が日夜唱えられていたのに、それでもユダヤ国家はローマ軍によって破滅させられた。

 祈りの言葉はすごくても、「心を尽くして祈る」という「神と民族へのまごころ」が失われ形骸化していたのだろう。神と民のためではなく、宗教者たちの多くが、人に崇められたい自己顕示欲だけで、ありがたい祈りの言葉を唱えていたために、神の御加護が得られなかった。福音書のパリサイ人らへのキリストの批判の言葉からは、そう解するほかはない。
 エルサレムの崩壊は、史実によれば、工期一世紀におよばんとするヘロデ大王のエルサレム神殿の完成のわずか一か月後であったという。そのご神意を想えば、もはや語るべき言葉を持たない。

 そのような体験の後、深夜に座禅をして寝床についた。すると、横たわる自分の頭部のレントゲン撮影のような映像が、脳裏にまざまざと浮かんだ。自分の頭蓋骨と上下の顎にならぶ整然とした歯列が見える。
 歯列と顎と頭蓋骨と喉のあたりの組織の透過映像を、私は見事なものだと感動して観察している。
 このように、見事で精緻な人体を設計されたのは、だれの意志かと思うと、それが神の御意志の表れであると感じた。 
 では、この先祖代々受け継がれる見事な人体という有機生命システムをつくられた神のご意志はいかなるものかと考えた。
 すると、そこにとてつもない神の慈愛がこめられているのを感じて、その深い広い愛情を受けたように思い、横たわりながら声をあげて泣いてしまった。

 これほどに見事で精密で完璧な有機生命体を無償で与えてもいいと思えるほどに、神様は人間を愛してくださっていると感じた。
 人間はじめ生き物の体は、神がどんなに生命を愛していらっしゃるかの現れであると強く感じて感激した。
 人間を深く深く強く強く愛しているからこそ、神はこの素晴らしい肉体を惜しげもなく与えてくださっている。
 あらゆる生き物の肉体は、神の、生命への「まごころこめた贈り物」なのだ。

 キリストが、自分の肉体をさして「この神殿」といったのは、そういう意味があったのだ。
 神の「まごころ」のましますところ、これことごとく「神殿」である。

 その感激のあと、別の相反するビジョンが起こった。
 神への信仰も目に見えない存在への畏敬もまったくもたない、長身の肌の浅黒い西アジア系の長身の目つきのするどい女が、斜に構えた腰掛姿で脳裏に現れた。黒髪を長くたらしてまとめた女は長い両脚を高々と組んで、わたしに皮肉交じりにこういうのだ。
「神の愛? あんたのいってることがぜんぜんわからない。そんなことがわかったからといって何が尊いの? さっぱりわからない。だいいち、そういう目に見えない存在をあがめていったい何になるのさ。人のために奉仕するとか、自己犠牲とか、ぜんぜん関心を持つ気になれない。あたしには関係ないこととしか思えない。神に従うなんていったい何の意味があるのさ」
 女はわるびれもせず、自信たっぷりにしっかりとした態度で「神への信仰なんて何の意味があるのかさっぱりわからない」といってのけた。
 この女は悪魔だろうか、私の心の中の悪の現れか、あるいは祖先の不信仰の集積の人格的表象かと疑問だった。
 のちに、この女の正体が判明した。現実にある人物の本音の心を現していることがわかったのである。

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シェモネ・エスレについて日本語訳があるサイト
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20131029/1383052696



# by ecdysis | 2018-11-06 03:49 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(0)

 9月23日に、スピリチュアルとしかいいようのない不思議な経験をした。私の中で大きな変化が起こっているらしい。

 晴れていたその日、買い物をしようと17時に部屋を出た。マンションの五階から、目の前を流れる荒川と河川敷で連休を楽しむ人々と、きれいな橋と高速道路と秋晴れの空を見上げた。ただ何も考えず無心に眺めていたのだが、私はなんの前触れもなく突然に、世界の実相の一端がわかり、世界を動かしている善なる意志の存在が理解され、激しい感動を覚えて我を忘れた。
 
 世界はすでに完全だった。無条件にすべてがそろい欠けているものは何もなかった。すべてが神の計画通りに、寸分の狂いも誤差も過不足もなく、あらゆるものが神の計画の通りに成就して、運行実施されているとわかったのだ。すべてに神々の慈愛がぎっしりと満ちて空虚なものはひとつもない。外見がいかであれ因縁がどうであれ、すべては神の御意志の通りに、あるべくしてあるし、その事実は過去現在未来を通じて変わらないのだ。なにごとも、どんな小事にもきちんと神の永遠の計画が絶え間なく実行に移されている。

 そう感じて、ほんの数十秒で、私はせきあげる感動に耐えられず、部屋に戻ると座り込んで号泣した。
 ありがたいのと、申し訳ないのと、うれしいのと混ざりあった感動で、西行法師ではないが、「かたじけなさに涙こぼるる」という表現がぴったりくる感覚だった。

 この世界は、まるごと永遠の御意志のもとにあり、そこから洩れているものは一つもない。永遠の御意志は、神でも仏でもハイヤーパワーでも呼び方はなんでもよい。
 この永遠の完全な世界の一部である私達も、完全な部分である。全体が完全なのだから部分も完全である。大きなダイヤの固まりを砕いても、その微粒子もダイヤであるがごとくにダイヤなのだ。
 そして、この心臓の鼓動が、私において、応分の神の永遠の計画が進行中の印だと感じた。
 
 世界はすでに完全なのに、私はそれを知らず、不完全な傷の多い世界だと思いこみ、不平と不満と改善への衝動に駆られて生きてきてしまった。なんとかせねば、どうにかせねばと焦って駆り立てられて、自分を駆り立てて生きてきた。しかし、そこまで駆けずりまわらなくとも、世界はすでに出来上がり、欠けているものなど何もなかった。
 無傷の宝玉を、傷物だ不完全だと騒いでいたのは、自分自身だけだった。世界は巨大な無傷の宝玉なのに、それの表面を電子顕微鏡でのぞき込んで「ほらこんなにでこぼこして醜い」と文句をいっていたようなものだ。「毛を吹いて傷を求む」というたとえの甚だしい事例というほかなかった。

 この世で、私達は、もともと完全な魂という姿をもっているのに、様々な人生を演じる俳優のようだ。色々な人格を演じてなりきっている。それが、この現世に生きる人の姿のたとえとして近いかもしれない。
 私達は、ドラマの収録中に記憶喪失になり、脚本上の自分の役柄を、素の自分と信じ込んで、ドラマの中を現実として「生きる」俳優のようだ。
 本来はどんなに巧みになりきって演じても、フィクションドラマの中の役は、もともとの俳優本人の姿ではない。この世で「これが自分である」「これが世の中である」という思いこみで生きている。もともとの魂が、神に似て完全であるとすれば、そういうものだとしかいいようがない。

 この日の世界の神の計画の大肯定の経験から、あらゆる終末思想は、末法思想であれハルマゲドン思想であれ、人間の思いこみにすぎないとわかった。

 世界は破滅にも終末にも向かっていない。世界を滅ぼそうとする意志は何も感じなかった。すべては、あるべくしてあり、生まれるべくして生まれ、消えるべくして消えるのだ。この見事に完成し成就された世界が、破滅や終末をその内に蔵しているなどありえない。むしろ、より完成度をあげようとしているかのように感じた。

 まちがっているのは、私という人格の「現実と信じているこの世界」への認識だ。あるがままの世界は、まるごと正しく精緻で完成されている。欠点はない。

 欠点や問題があるのは、私という意識であって世界ではない。今の人生を恐ろしい地雷原にしたのは、ほかならぬ複数の過去世の自分たちである。過去世の自分たちの、怒りと貪りと愚かさの言動と心は、人を害そうと埋めた地雷のようなものだ。
 自分の仕掛けた地雷が埋まったまま、再びこの現世に生まれ変わって、地雷を埋めたこともその場所も忘れて、私達は人生という地雷原を歩む。そして、事故災難病気被害という「地雷を踏んだ爆発」に逢う。過去世の自分が人にしたことが、現世の自分に返ってくる。それを仏教では「因果応報」という。

 釈迦やキリストや聖人覚者の教えは、因果応報の説法という形をとろうととるまいと、とにかく「過去世に埋めた地雷があることを知り、それを安全にとりのぞき、なおかつ新たな地雷を埋めることがないようにする」ための教えである。
 そのように考えれば、反省悔悟とは、過去に埋めた地雷を自分で踏んで痛い目に逢い、「地雷を埋めるようなことはすまい」と決心することだといえる。

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# by ecdysis | 2018-11-05 02:09 | メンタルヘルス | Trackback | Comments(2)

 女性依存のある私は、釈迦の弟子の尼僧たちの話(『ブッダとその弟子89の物語』菅沼晃/法蔵館)を読んで、いたく心が揺さぶられている。女性は悟りを開くのが難しいと古来いわれているし、釈迦も自分の養母である叔母が、男ばかりであった僧団に、初の女性としての出家を願い出たとき、何度も断っている。
 しかし、出家したいとあきらめずに繰り返し懇請する女性たちの願いをいれて、尼僧の僧団がつくられ、女性の中からも悟りを開く偉大な出家者が続出した。

 彼女たちの中には、少なからず高級遊女として有名だった美女がおり、王侯貴族から求婚されまくったほど美貌を誇った女性たちもおり、出家した彼女らを、世俗の男たちが草庵まで追いかけて待ち伏せしてレイプしたり、あるいは王宮に拉致したりして性的暴行におよぶという悲劇もたびたび起こっている。出家したからといって世俗側からの欲望を回避するのは容易ではなかった。尼たちの中には、レイプしようとした男たちの前で自分の両眼をえぐりだし、その欲望を押しとどめたという尼僧たちもいる。それらの屈辱をのりこえて、何人もの美貌をうたわれた女性たちが、修行を積んで悟りを開いた。
 名前だけをあげても、バッダー・カピラーニー尼、マーガンディヤー尼、シリマー尼、ケーマー尼、アッダカーシー尼、アンバパーリー尼、ウッパラヴァンナー尼などがいる。

 彼女らの多くは、遊女稼業で稼ぎまくって大金持ちになっていたが、釈迦の教えに触れて、愛欲の無常と、愛欲への嫌悪とを感じ、自分が老いていって容色が衰えて見る影もなくなった無常を真実に受け止めた。
 釈迦の諸行無常と肉体は不浄物であるとの教えを、本当に悟った女性たちだったことが、経典には書いてある。

 彼女らの言葉は、男である私の愛欲深い心にも、思わぬ衝撃を与えた。

 私の愛する女性たちの顔も肉体も、みな老いてゆく。過去にかかわった女性たちは、私の心の中では当時の若く美しい姿のままだが、現実の彼女たちは老いているはずだ。面影はあるかもしれないが、再会しても驚くような変貌をしているだろう。私自身も相手にそう思わせるのはわかっているが。

 不思議にも、私は自分の老いと容色の衰えを嘆く気はしない。それよりも、彼女たちが、あるいはいま若い女性たちが、その美しい若々しい肌も色艶も、乳房も腰も脚も、数十年後には見る影もなくなるという事実に、ショックを覚える。
 若い女性の美しさや、その年代の女性だけがもつ可憐さや、いきいきとした唇や首筋の輝きは、私にとっては青年時代から憧れであり、「女性」というものへの欲望と励みと楽しみをかきたてる燃料でもあった。
 それが、無常であるなどとは実感すらできなかった。なんとなく、自分の記憶とさほど変わらないままでいるのではないかと、根拠のない妄想を抱いていただけなのを、今更ながら思い知らされた。

 私が愛してめでた女性たちの美しさが、一過性のもので、やがてはだれもが喪失していくものだと信じられるだろうか?
 結婚していれば、妻の姿にそれを見出して少しずつ受け入れていけるのだろうが、私は独身なのでそういう機会はない。
 私が好んで愛し執着した可愛さや美しさが、そのままではいられない移ろうものでしかないという事実を、私は愕然とする想いで受け止めている それでは、私が永遠なれ、不変なれと無意識に望んでいた「若い女性の美」は、いったいなんだったのだろうか?

 あえて言葉にするのも虚しいがいおう。それは、私にとって「偶像」だった。「偶像」はいつか破壊されねばならない。
 それは、激しい悲しみを私にもたらした。あれほど深く強く愛着したものが、愛欲の対象としたものが、いつまでもその姿を保ってくれはしないとはなんということだろう。ある種、狂おしいような悲嘆の感情が、涙を催させる。

 いまは若くても、その娘も、三十年もすれば、若さを保ってはいられない。一世を風靡する美貌の女優も歌手も、まったく同じだ。
 今は高齢の有名女優や歌手の若い頃の写真を調べてみれば、みな信じられないほどの美女ぞろいだったとわかる。
 時は残酷だとかいうつもりはない。万人が老化と衰えを避けることはできない。
 問題は、私が心の中で若い女性の美しさの記憶を、変わらないものとして留め続けようとすることなのだ。

 若い可愛い新人のアイドルやアダルトビデオ女優たちが、何人もデビューしては消えてゆく。彼女らの現世の存在は消えないが、彼女らの若さ美しさの魅力的な時期が消えてゆくのだ。若い女のイメージに執着しつづけて、次々に現れては消えるアイドルやAV女優を、いつまでも追い続けていられるわけもない。果てしなくきりのない生滅が繰り返されるだけだ。ビデオでも画像でも、女優はちがっても煽情的なアングルやポースや体位は同じだ。制作サイドの売るためのマニュアルは同じなのだから、アイドルやAV女優たちの消費材としての価値は短期間ですりへってしまう。
 それらの画像や動画は、幻想であり実体ではない。私は、二次元の幻影を愛して好み執着していただけで、生身の実体にはなにひとつ触れていない。

 私が楽しみにして快楽をそこからむさぼっていた対象はすべて幻だったのだ。私は、幻を楽しみ、幻を貪り、幻を励みとし、幻に期待して、幻を求めて、追いかけ続けてきたにすぎない。対象が幻なのだから、現実的に実感のある出来事は何も生まれはしなかったし現れもしなかった。

 私の異性愛は、幻だった。性欲も幻に向けた虚しい欲望だった。何も残らず何も果たされなかった。永続する関係も家庭づくりも現れなかった。それらは、はじめから「こうあってほしい」という幻影にすぎなかったからだ。

 買い物帰りに気づいた愕然とする圧倒的な事実の衝撃である。私はなかば泣きべそをかきながら、ふらふらと歩いて家路についた。
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  ウッパラヴァンナー尼


# by ecdysis | 2018-11-04 04:15 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)

ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com(exciteメールは2018/9/18をもって使用不能となりました)