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ecdysisは「脱皮」。管理者・心炎の悲嘆と絶望、歓喜と希望のあやなす過去・現在・未来を見つめ、アダルトチルドレンより回復する為のブログ。メール:flamework52@gmail.com


by 心炎
 自分の生まれた家が、普通のほかの家とちがうことに決定的に気づいた高校2年のときから、いつも私は、「自分は人並み以下である」と引け目を感じてきた。それは、太陽を避ける土竜(もぐら)か、はたまた暗がりでしか生きられない虫たちに、自分がなってしまったかのようだった。

 まわりの普通の人たちがまぶしくてならず、特に同年代の少女たちの明朗さと可愛いらしさ健全さには、ひどい無力感と敗北感といいようのない飢餓感を覚えて、赤面恐怖症に苦しんだ。自分には手の届かない少女たち。憧れというには痛ましすぎる。対面して話すだけで、相手に自分の生い立ちのけがれが移って迷惑をかけ、不快にさせるにちがいないと信じていた。

 自分がどうしても醜く汚いものとしか思えず、まわりからそんな自分の正体を指摘されたらどうしようかと、いつもこわかった。それが、病的な自意識過剰だったのだと気づいたのは、ずっとあとのことだ。

 それがACにつきものの「恥」の感覚なのだと、精神科医に指摘されて気づいたのはこの数年のことで、それ以前は「自分はできそこないのなりそこないだ」と、卑下する心に苦しんでいた。

 私の「ひけめ」は、言葉を変えれば「普通でない自分」を恥じていたことに起因する。
 もっといえば「普通の人の普通の苦労ができない自分」は、「この世界に適応できない逸脱者」でしかありえず、居場所も生きる場もないと思っていたし、その気持ちもいまだ完全に払拭できたとはいえない。

 ただ、最近、ふと思ったのは、自分は確かに普通の人がするような普通の苦労(たとえば、結婚や子育てや一般企業での仕事の苦労など)はしていないけれど、ACとしての苦労なら、ものすごくしている。普通の苦労ができなくて恥じていた自分だけれど、その替わりといってはなんだが、普通の人たちがしない苦労をたくさんしている。

 私はまちがっていたようだ。「普通の人の苦労」だけが、「苦労」に値するもので、それ以外の苦労は評価されない無に等しいと信じていたことを。

 普通の人たちと普通の苦労をする「共感」は得られないが、ACの人たちとはACならではの苦労において「共感」できることを知ったのが、この気づきの大きなきっかけだとわかったからだ。

 この気づきに関しても、私はACの自助グループの大きな効果を実感している。
 そこでは、私は自分がACであることを恥じなくていいし、生い立ちを語ることをみじめだと思うこともしなくていい。モグラでなくていいし、インナーチャイルドをあらわにしても、だれにもとがめられずに済む。
# by ecdysis | 2011-06-12 06:36 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)
 日本国憲法第25条1項に、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とある。この憲法の成立過程や可否について論じることは、ここではしないけれど、「生存権の保証」として示されたというこの条文を素直に読む限り、ACの生い立ちには、この「生存権」をすら保証しない過酷なものがある。

 私たちACの生まれた家庭のほとんどは、「健康で文化的」などとはお世辞にもいえず、「経済的に最低限度の生活」につねに脅かされ、あらゆる意味で「余裕」がない。心を病み体を傷つけ、持たなくていい罪悪感に押しつぶされ、必要なはずの安心と喜びに居心地の悪さを覚え、生活の不安と自分の生存そのものを敵視し、自分で自分を苦しめることにのみ生きる値打ちと目的を見出すという暮らしをするようになった。

 それでも、不健康な状態から健康な状態へ、野蛮な状態から文化的な状態へ、自分を変えてゆく意志は持ち続けたい。コントロールのきかない最低状態から、コントロールのきく余裕のある状態へ、私は生涯かけて生き方を変えてゆきたい。
# by ecdysis | 2011-06-12 05:43 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)
 私という人間の、いまある姿は、私自身によるものだけでなく、その基本は、実家の曽祖父母から続くアルコール依存やACの血脈---世代連鎖にある。

 すなわち、私は三代も四代も前から、抵抗不可能な欠点や問題をそのまま受け継いできてしまったのだ。それは事実だ。

 母が生前いっていたが、私の父方の祖先は、今回の東日本大震災で大きな被害をこうむった岩手県南の海岸部で活躍した「気仙大工(けせんだいく)」という、民家も寺社も建具も作るという器用な大工の層の出らしい。その何でも屋のような仕事ぶりから、時代がくだると軽蔑的な呼ばれ方もしたようだけれど、現在、父方の兄弟は建設業を営んでいるので、その流れは確かに血に受け継がれているのだろう。

 そして、ACの世代連鎖がはじまる原因に「天災」があるという説を聞いたことがある。
 気仙大工の祖先も、大津波の被害を受けたのだろう。いな、津波で何もかもなくすことが繰り返されたからこそ、生き残った大工たちは、民家も寺社も家具もつくらねばならなかったと考えるのが自然だろう。気仙大工の存在そのものが、津波被害を証明している。

 実家から車で20分以内でつく田んぼのまんなかに、天明の飢饉のときの餓死者の供養の塔が建っている。それを二十年ほど前に初めてみたとき、歴史の教科書でしか知らなかった「飢饉」が、現実にあったのだと実感して、名状しがたい気持ちになった。

 私のAC性の起源が、こうした東北の過去の飢饉や津波など、天災によってはじまったものならば、自然災害に対する人の無力さが、ACの症状への無力さにつながってもおかしくない。

 数年前から、私が日々、仏前に祖先と有縁・無縁の万霊の冥福を、簡略ながら祈るようになったのは、自然な流れだと思える。

 無力な私が祈るのは、生前の苦痛と悲惨さを忘れて、慰めと浄罪と霊性の向上の幸福に、あらゆる先人たちの魂が昇ってゆくこと。
# by ecdysis | 2011-05-24 02:43 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)
 私は結局、祖母と祖父のひどいありさま、我が子に苛烈な虐待を働く父母に「人間への絶望」を感じたのだと思う。

 幼児の自分をとりまく周囲の大人たちの醜さと非情さと過酷さが、「人間」というもので、あらゆる人間が、私の父母や祖父母と同じものを持っているにちがいないと思い、子供の私は極度の人間不信と対人恐怖に陥ったのだ。

 おそらくすべての子供にとって、大人の家族は「人間の典型」「人間のモデルケース」なのだから、その典型ケースが「恐ろしい醜悪なもの」ならば「人間全般=恐ろしくて醜悪なもの」と定義されるのは当然だ。すでにそこから、健全な人間観や共同体意識が育たないようになっていたのだ。

 もっとも愛した母親が、同時にもっとも恐怖すべき存在だったことは、私を決定的なACにした大きな初歩だったと感じる。それは、神と悪魔が同一存在であるというのと同じことで、私には心から信じられ、甘えられる家族がいなかったことになる。

 生まれたときにはとっくに荒廃し、すでに失われたわが生家よ。
 おまえの有害な毒の大地にまかれて育ったがために、私はACという病んだ樹木となっている。
 私は実もならぬ木になったが、できるだけ葉を茂らせ、わが身で毒を解毒し、木陰と浄化を提供するものとなることを、天上の太陽に祈る。
# by ecdysis | 2011-05-16 07:39 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)
 結婚恐怖症ということを書いてきたが、私の場合、それは正確には「家庭恐怖症」といえる。
 「家族がいっしょに暮らす」こと自体が「こわい」のだ。

 あまりにも、生い立ちの家庭での家族関係が悲惨だったので、「家庭」というものに「悲劇」のイメージしか持っていないことに気づいた。

 それは、いじめの被害にあった人が対人恐怖症になったり、性的被害にあった人がセックス恐怖症になったり、刺されたことのある人が刃物恐怖症になったりするのと、まったく同じ機序で発生したものだ。だから、理屈や言葉以前の次元の話なのだ。

 私にとって生家は、恐怖と不安と悲しみと惨めさと屈辱の場だった。
 それを何とかしたくて、「結婚・家庭願望」を抱いたのだが、もともと持っているものを、よく認識せずに、ただやみくもに埋め合わせようとしただけだった。これが、「家庭トラウマ」というはっきりした症状であると自覚しないまま、自分と母を救おうとしたのだが、今にして思えばかなわない問題にかかずらわってきたのだとわかる。
# by ecdysis | 2011-05-14 23:52 | アダルトチルドレン・依存症 | Trackback | Comments(0)